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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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#日常

顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。 母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。 父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。 父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。 長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。 それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。 そしてそれ

大阪 八尾の喫茶店

たぶん、日本でも有数の個性的な珈琲店はいつものように八尾の高安に佇んでいました。 八尾市高安の住宅街にある知る人ぞ知る『ザ・ミュンヒ』です。 美味しいが高いコーヒーで有名です。 で、店の名前の由来がこのドイツ製のオートバイ『ミュンヒ』です。 とても個性的なこのバイク、日本では、ここでしか見ることの出来ない一台です。 望月三起也の『ワイルドセブン』って漫画に出ていて憧れました。 中学生頃、胸を高鳴らせて読んだのを思い出します。 最初、実物を見て感動しました。 一脚数万円でも

街で見かけるあいつ

日々目にするもので何も考えず見過ごしているものってのがたくさんあると思う。 電信柱、これが無い街は実際にたくさんある。 電線が地下に潜っているわけである。 初めてそんな街を見ると「あれ、」と違和感を覚える、そんな感じの事である。 見ていないようで見ているのである。 逆に見つけて安心するものもある。 猫好きは街中を闊歩する猫を見つけて安堵する。 その安堵感は意識せず目にしている電信柱に対するものと変わりはないと思う。 以前はもっと野良猫や家猫が外をウロウロしていた。 今は野

朝のフレンチトースト

早朝からフレンチトーストを焼き、コーヒーを飲み机に向かう。 伯母へ私の近況を手紙で認める。 九十才を過ぎ、五人の兄妹のなか最後に残る伯母の気持ちは如何なるものかと考える。 誰かが最後に残る、その理屈は理解出来る。 普通は年齢の順に逝くものと、心は当たり前に準備されているのではないだろうか。 しかし、そんな当たり前に思えることが、なかなかそういかない。 二年前に伯母は長女を亡くしている。 持病があったにしてもあまりに急な出来事だった。 『幸せな老後』なんて言葉を

秋のあめ

久しぶりの雨らしい雨が乾いた空気でいがいがしていた私の喉を潤してくれる。 この時期、電車の中で咳をするだけでも気をつかってしまう。 電車の中で以前のように咳やクシャミをする人間が減ったような気がするのは私だけだろうか。 サラリーマン時代の雨の終電での帰りは寂しいものであった。 このニューコロナで利用客の通勤スタイルが変わり、終電の時間を繰り上げるのは理解出来るが困る人もいるんだろうなぁ、と思う。 学生時代いろんなアルバイトをした。 終電で築地に向かい、朝まで青果の卸会社で

猫のひげ

不思議である。 わが家のばあちゃんネコ、ミケ猫ブウニャンのひげは一本だけ波打っているのである。 秋バージョンではない。抜けても抜けても年中波打っている。 たくさんの猫を見てきたが、初めてである。特殊な能力を備えているわけでもなさそうである。普通のひげである。 ごくごく普通のミケ猫は15年ほど前に愛知の実家で生を授かった。 母猫は不幸にも交通事故で他界している、それからしばらくして兄弟の茶トラ白の『トラ』とともに大阪に引き取った。 高齢の両親の他界と施設入所で飼い主がいなくな

日常と非日常のはざまに

午前中、自宅での仕事を終えて自転車で近鉄八尾駅近くまで行った。 用事を済ませてコーヒーを飲みたかったが、どうもそういう雰囲気ではない。 本屋にだけ寄って『暮しの手帖』を久しぶりに手にした。 母が定期購読していた、子どもの頃から眺めていた雑誌だ。 硬い文章は斜め読み、いつも眺めて時間を楽しんだ。 塀の向こうにいた作家、安部譲二が服役中に購読していたのがなんとなくわかる。 そこにあるのは『普通の日常と非日常』なのである。 目まぐるしく変わる世の中を生きるなか、こんな

猫といきてきて

何度もここに書いているが、子供の頃から寝ていても気がつけば枕もとに猫がいるような生活をしてきた。 社会人になってからともに生活して来たのは一昨年末にあの世に行ってしまったトラと今いるブウニャンである。 どちらも両親が愛知県豊川市で飼っていた頃には外との行き来は自由で、二匹にとっては快適で気ままな生活を送っていた。 しかし、父が他界して大阪に連れて来てからはそうはいかなくなった。 二匹の母親のように交通事故などで命を持って行かれたくなく、家猫になってもらった。 老齢に近づくと

本屋にもらってきた楽しみ

本が好きである。 でも、実は、もうしばらく本屋に行ってない。 というより、仕事と合気道の稽古以外で家から出ることがあまりない。 この流行り病でご多分に漏れる事なくどの本屋も大変な経営を強いられているのであろう。 それ以前に社会変革であるIT化の波による電子書籍や、書籍の宅送によるシステムが確立したりして、駅前や商店街の本屋が時代に取り残されてしまっているのではと気になっていた。 書籍だけで生き残るのはかなり難しいのであろうと容易に想像できる。  本屋の中にはカフェや居酒屋

『当たり前』に感じるありがたみ

心をとらえて止まないものってある。 それは人によってさまざまだろう。 4,5日前からずっと心に残る販促用の記録映画がある。 しげさんが記事にしていた『窓ひらく』である。 何が私の心をとらえて止まないのかを考えていた。 『一つの生活改善記録』ってあるサブタイトル、お若い方にはピンと来ないであろう。 大正から昭和初期にかけて行われた衣食住の消費生活や、社会習慣全般の合理的改善を目指す社会教育事業である。 そのなかの一つの生活改善記録、私の生まれた60年ほど前の、ある農村での

無駄の必要をかんがえる

昨日の記事に菊地正夫さんから ビジネスに身を置いていたときは、 「効率的」「機能的」「能率的」ばっかり求めてきた。 とコメントのなかにありました。 私が経験してきた建設業界の営業はわりと義理と人情の世界だったのですが、それ以上にノルマのプレッシャーは大きく、気がつけば効率に走り、義理と人情は夢の世界だった時もあったような気もします。 以前はこの暑い時期に母、兄に会うために愛知まで車を走らせ、帰ると車体には虫の死骸がたくさん張り付いていました。 そんな季節です。 やむを

些細なけつだん

いつもいろんなことを考えている。 誰もが同じだと思う。 そのいろんなことは、何かのタイミングでチャンネルが変わり、考える中心やコンテンツが変わる。 その時はアイドリングしていた考えが動き出すようなそんな感覚を持つ。 考えは止まったままではおらずに常にアイドリングしており、ひとりでに進んでいることが多い。 三十歳、ゼネコン営業一年目での上司に受注目標物件を期中受注物件を中心に中長期物件まで複数仕込むようにと教えられた。 同時に複数の事案を考え進める訓練を受けた。 そして一人

酒を飲むじかん

男の言い訳ではあるが、仕事のストレスで飲まなければ帰れなかった時期があった。 仕事を引きずって帰るようで、家でまで酒を飲むことはなかった。 本来酒は楽しいものであって、心に余裕が無ければ飲むものではないと今は思うようになった。 そうでない時の酒はカラダに悪いし、酒に失礼だ。 今は料理をする時に飲む酒がいい。 楽しい事と楽しい事の取り合わせであろうか。 あとは仕事が終わって深夜に一人少しだけ飲む。 この時は考え事か、好きな本をながめる、ラジオを聴く。 これも楽し

子どもの頃、山にのぼったこと

アルプ・スナフキンさんの記事を読んで山登りに憧れている。 愛知県豊川市に本宮山(ほんぐうさん)という標高789メートルの山がある。 卒業した地元の高校の校歌にも歌われていた。 緑豊かな田畑の続いた先にある三河富士とも呼ばれる端正な形をした山である。 連なる山々の先は南アルプスに向かう。 子どもの私たちにでも自転車で登山口まで行けるこの山に何度も登ったことを思い出した。 現在、市町村合併で豊川市となった旧宝飯郡一宮町に砥鹿神社(とがじんじゃ)という立派な神社があり、その奥宮