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無駄の必要をかんがえる

昨日の記事に菊地正夫さんから

ビジネスに身を置いていたときは、
「効率的」「機能的」「能率的」ばっかり求めてきた。

とコメントのなかにありました。

私が経験してきた建設業界の営業はわりと義理と人情の世界だったのですが、それ以上にノルマのプレッシャーは大きく、気がつけば効率に走り、義理と人情は夢の世界だった時もあったような気もします。

以前はこの暑い時期に母、兄に会うために愛知まで車を走らせ、帰ると車体には虫の死骸がたくさん張り付いていました。
そんな季節です。
やむを得ぬ事とはいえ、無用な殺傷をしてしまったと思いながら、虫たちの成仏を祈り、帰宅後にその部分だけを洗車したものです。

気がつけば、私にとって自動車は道具になっていて、年に一度くらいしか真剣に洗車することはなくなっていました。
でも、若い頃には毎週洗車しました。
どんなに忙しくても毎週洗車していました。
車や運転が嫌いということはなく、マイカーに愛着さえありました。
でもそういうものだと思い込んでいたふしもありました。

そんなことと似たような話で、しなければならないと思い込んで日常のルーチンになってしまっている事が案外少なくなかったことがこの流行り病で分かったかもしれません。
仕事のスタイルや生活が変わるのは良い事も悪い事もあるでしょう。
立場によっても違うでしょう。
でも、しなくてもいいことに気づくことの出来た期間だったかも知れません。

家庭ならばそれまで独力で守ってきた主婦とそこに入り込んでいく男たち。
そこにもそれまで無かった夫婦での持ち分の権限移譲やら分配があって、主婦に出来る新しい時間や、料理に目覚める企業戦士の新たな楽しみが生まれたかも知れません。
そして、時間とともに以前と違う生活は平常化しているのでしょうか。
時間とともに良い事も悪い事も当たり前になっていくのでしょうか。
良い方向に変わるのはいい話ですが、効率ばかりに向かって行かなければいいなと思います。

無駄は必要です。
無駄から生まれる『有』があります。
失敗から生まれる『有』があるのと同じだと思います。
何もしない、何も考えない時間が必要だと思っています。
そこから「さて、」と頭を切り替える時にヒラメキがあったりもします。
とにかく、緊張は持続出来るものではありません。
一人でいる時間、家にいる時間の中にも休憩時間を設けてボーッとする時間があったりするべきでしょう。

こんな時間が案外、というよりも、とても大切な時間のような気がします。
この歳になり、残された限られた時間を肌身で感じるようになってきました。
でもその限られた時間にもそんな、一見無駄に見える時間は必要なんじゃなかろうかと思います。

私の場合、そんな時間が長すぎるのかも知れないのですが。

グツグツと中身の煮え立った焼きナスの皮を熱さを我慢して素手でむくような、焼けた皮は食べれば食べれないことはないのですが、それをむくのにも似たような。
(ちなみに私はこの焼きナスを刻んで作る味噌汁が好きです。)

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