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『当たり前』に感じるありがたみ

心をとらえて止まないものってある。
それは人によってさまざまだろう。

4,5日前からずっと心に残る販促用の記録映画がある。
しげさんが記事にしていた『窓ひらく』である。

何が私の心をとらえて止まないのかを考えていた。

『一つの生活改善記録』ってあるサブタイトル、お若い方にはピンと来ないであろう。
大正から昭和初期にかけて行われた衣食住の消費生活や、社会習慣全般の合理的改善を目指す社会教育事業である。
そのなかの一つの生活改善記録、私の生まれた60年ほど前の、ある農村での主婦たちの日常の話である。

当初、炊事場である土間には窓も水道も無い、煮炊きは薪をくべてのカマドしか無い。
そんな環境での炊事を主婦たちは強いられており、それが『当たり前』の中で行われていたのだ。
それが婦人会の貯金活動で資金を積み立て、徐々に改善されていく。
土壁を破り、ガラス窓を据え付け陽が差し込み、新しいカマドがやって来て、便利な棚や新品の食卓は古く暗い炊事場に新しい風を吹き込む。
これに主婦は目を輝かせて生き生きと食事の準備を始める。
ありがたみを感じ、感謝の気持ちを持って生活の基本となる『食』の創造に取り組む。

私の心をとらえて止まないのはこの『当たり前にありがたさを感じる心』なんだと思う。
そして、大切に自身の生活を送っていく。
とんでもない不便さがあったその後の当たり前の生活、、、
その上に幸せな家庭生活が作り上げられていく。

これは60年も前の『板硝子協会』による新しい窓、窓ガラスの普及のための販促用映画であるが、今から20年ほど前に遡って、もしも『情報処理端末普及協会』なんてのがあってパソコン、タブレット、スマホ、携帯電話の普及販促用映画を作ったとして、それを現在目にしても何の感動も湧いてこないような気がする。

日常に不可欠な食事の用意のために改善された明るい窓のある土間の炊事場、私たちの今の日常に不可欠になっているデバイス類が揃った世界。
どちらも不可欠なものであるのに、登場して『当たり前に感じるありがたみ』の違いに驚く。

不可欠さに違いがあるのだろうか、当たり前に違いがあるのだろうか、その違いに不思議を感じる。

ヘッダーの写真はお母さんが新しい炊事場で炊いた鯖の煮付け、ではなく私が自宅で炊いた鯖。
お母さんが作る食事は昔ながらの田舎料理であろう。
お父さんは鯖の煮付けを箸で突きながら熱燗をちびちびやり、お母さんからどんなに炊事が楽になったか、明るい炊事場がどんなにうれしいかをこれまでの婦人会での貯金活動の話から事細かに聞く事だろう。
『当たり前』に対してのありがたさをいつまでも語り続けるだろう。


しげさんの毎晩アップされる記事は毎回しげさんが撮影された写真や作られた料理などである。
それをもとに私たちにいろいろな疑問を投げかけてくる。
何とも楽しい記事である。
一度皆さんにも、しげさんの世界に落ちてもらいたいと思うのである。

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