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日常と非日常のはざまに

午前中、自宅での仕事を終えて自転車で近鉄八尾駅近くまで行った。

用事を済ませてコーヒーを飲みたかったが、どうもそういう雰囲気ではない。

本屋にだけ寄って『暮しの手帖』を久しぶりに手にした。

母が定期購読していた、子どもの頃から眺めていた雑誌だ。

硬い文章は斜め読み、いつも眺めて時間を楽しんだ。

塀の向こうにいた作家、安部譲二が服役中に購読していたのがなんとなくわかる。

そこにあるのは『普通の日常と非日常』なのである。

目まぐるしく変わる世の中を生きるなか、こんなのを目にする時間がいいのだと思う。

『日常』と『非日常』、この雑誌の中と私の生活、安部譲二の塀の中の生活、どれが『日常』でありどれが『非日常』なのかはわからない。

ただ、ギャップがよいのだと思う。

乾いた秋の空気の中、自転車で帰宅する途中に思い出していた。

以前住んでいた奈良の自宅付近のこの時期の風景を。

明日香村の曼珠沙華はもう赤く咲いているのだろうか。

休みになると朝早くから息子を車に乗せて田の畦に咲く曼殊沙華の花を見に行った。

秋雨の間、抜けるような濃い青空に向かい立ち咲く彼岸花は、田の輝く黄緑とのコントラストも鮮やかで私たちをいつまでも飽きさせることはなかった。

突き抜けて 天上の紺 曼珠沙華(山口誓子)

私の好きなこの時節の句である。

葉が無くいきなり朱色の花をつける彼岸花を飽きることなくながめたのである。

サンスクリット語の天界の花が『曼殊沙華』の意味であるが、名もその容姿もまさしく『非日常』である。

最近、『暮しの手帖』が面白くないのはなぜだか考えていた。

私の生活が単調になって来たからかもしれない。

求めていた『日常』に近づいて来たからかもしれない。

仕事は変わり、家族の介護は無くなりつつあり、『非日常』が薄れてきたからかもしれない。

今日の休みの一日は普通の日常、こんな時間が明日への活力になると思う。

帰ってベッドの上で『日常』か『非日常』かわからぬ『暮しの手帖』のバックナンバーを広げた。

自身の部屋の『日常』を横目に、知らないうちに『非日常』の夢の世界に入っていった。

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