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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2022年1月の記事一覧

『その日暮らし』をかんがえる

誰もが今生きることと同時に未来を考えて生きていると思う。 ゼネコン営業マン時代のこと、営業マンは各人目標の受注数値を達成させるために日夜努力をしなければならなかった。 その目標にはいつも期限があった。 これから迫ってくる年度末は辛かった。 そして、期中の仕事ばかりに気を取られているわけにはいかない。 時間の流れは容赦無かった。 絶えず頭を整理しながら期内受注の営業をしながら来期以降や、もっと先の中長期の営業までも考えて進めなければならなかった。 一つ受注しても気を休めること

仮面の忍者赤影が私に考えさせたこと

JR八尾駅のホームに立っている。 さすがにマスクを付けてない人はいない。 皆さん地味にカラフルなある意味個性的な好みのマスクをかけていらっしゃる。 なのにあのマスクは一つも見かけることは無い。 子どもの頃使ったガーゼを重ねて作られたあの『アベノマスク』である。 何度も洗濯して使っていた。 耳のゴムが伸びてもゴムを取り替えて使用を強要された。 母の取り替えたゴムはパンツのゴム、しかもキツく、耳が痛かった。 そんな時代であった。 『仮面の忍者 赤影』ってのを私の世代では皆知っ

通天閣をなぜ赤く染める

酒を売る商売に賛否はあるであろう。 そのやり方にもよると思う。 でも、私の知る多くの仲間は人を愛し、酒を愛し、万人を受け入れる度量を持って飲食業を営んでいる。 私は依存する人間には酒からは離れることをお勧めする。 この期に及んで飲み屋でバカ騒ぎする人間には大人として酒を飲む資格はない。 本当に酒が、酒を飲む場所が好きであるならば節度を持って酒と飲み屋に接するべきである。 酒と飲み屋を大切にすべきである。 節度を持てぬ客は店主が追い返したらいい、客みんなで「お前は帰れ」と言え

台湾の母

昼下がり、時間を見計らったように私がボーっとしているタイミングに台湾の母黄絢絢さんからlineで電話がきた。母の親友である絢絢、今年で94歳になる。いつも私の身を案じて電話をくれる。 日本の統治下で日本語の教育を受けた絢絢はいまだに日本語の読み書きは達者である。ひょっとしたら私よりも。日本を敬愛してやまない絢絢であるが、日本の教育を受けたがために公用語である台湾華語が出来ないと私が子どもの頃こぼしていたのを憶えている。台湾華語も北京語も中途半端だと言う。 そして看護師を定年

色の音

日の出前、地平線は生駒山系、大阪東部を南北に連なる。 色の音を考える時がある。 耳で聞かずとも色で聞こえる音である。 色ばかりでなく風景、その時の状況で心が聞くことのできる音を考える。 子どもの頃、他人の庭に勝手に入り赤い椿の花が音を立てずに落ちたのだが、その時私の心は『ボトリ』という落花音を聞いたのだ。 他人の庭に入り込んだ罪悪感がそこにはあった。 古い日本家屋と手入れされた庭、そこにあった垣根の椿の赤を今も記憶している。 この時期の日の出前の朝焼けには凍えた空気に音

空をみる

朝、空を見る 星は瞬き空気の澄を感じた まだ明けぬ早朝の空気は尖っていた 働こうという私の邪魔をするのか その日暮らしに甘んずる私を怒っているようだった 魚市場へ向かう私に空は何を感じていただろう 昼、空を見る 底の見えない青い空気だった 愛知の冬は空を深く深く青くした そして太陽は子どもの私に囁いた 虫眼鏡で焼いてやれ地べたを歩くアリを焼いてやれ 焼けない私を空はなんと思っていたのだろう 夕、空を見る 子どもではない私は街を歩いた やわらかい空気はそこには無かった やめ

ハガキをかく

ハガキをしたため中である。年賀状の返事である。年賀状は数年前にやめてしまった。それでもいただく年賀状を外っておくわけにはいかない。 三十、四十代の頃は毎年数百枚の年賀状を書いていた。友人、知人、会社の上下、得意先、年々その枚数は増えていった。毎年末には寝るのを惜しんで酒を飲み、寝るのを惜しんで年賀状を書いた。移動の電車内や車の中でも書いていた。それは苦行以外の何物でもなかった。 両親、兄貴の介護、家の立て直しのため休職していた間にそれは変わった。 父は生死の境を彷徨い、母

本をよむ

子どもの頃から傍らに本があった。 障害を持つ兄を昼寝で寝かしつけるために母が読み聞かせてくれた。 その横でいつも私も聞いていた。岩波少年文庫が多かったと思う。当時は今ほど書店は多くはなくインターネットはもちろん通販などの無い時代だった。父の会社が付き合う豊橋の個人書店から新刊発刊の予定を聞きいつも新作を注文してくれていた。リンドグレーンやケストナー、C.S.ルイスの作品が記憶に残る。その時間だけでも私に嫌なことを忘れさせてくれるのがうれしかった。子どもの創造力を刺激し考えさせ

胃の痛みがおしえてくれる

加齢とともにカラダのあちらこちらから悲鳴が聞こえて来る。 しばらく無かった胃の痛み、加えて食道に胃液が込み上げて来るのがわかる。 加齢とストレスだろう。 以前のように毎日ではないのだが夕刻に近づく時間に痛み出すことがある。 現役の営業マン時代、「お前たちが行動するとそのたびに大震災級の事件が起きる」と支店長に言われたほどキョーレツな上司とともに行動した時期があり、その時はいつも会社で支給された胃薬をカバンに入れていた。 一緒にいること自体が苦痛でストレスであった。 その頃の痛

考えごとを考える

考え事をためる癖がある。 明日出来ることは今日しないようにして来た。 そしてたまってきた考え事が原因で、漠然とした不安に襲われる時がある。分かっていたら改めればいいのだろうが、それは自分の『癖』なんだろうと思う。 いつもそんな時は気になっていることやミッションを紙に書き出す。 一つずつ考えると「な〜んだ」って感じで漠然とした不安は無くなり、それから動き出したりする。 議員事務所に行くと持参した問題は即座に片付けてくれた。 電話一本するだけだから自分が動くわけではない。 それ

ボラの引っ掛け釣り

わが家の愛猫ブウニャンが布団にもぐる時間が長くなってきた。この風景を目にすると冬が来たなと思う。 大寒にはまだ日があるが、ここ大阪もやっと朝晩は気持ちの引き締まる冷たさとなってきている。 この寒さがもっと募ってくると子どもの頃やったボラの引っ掛け釣りを思い出す。ボラという魚を知らない人が多いかも知れない。白身の泥臭い魚だ。卵の加工品のカラスミの方が有名だろう。 出世魚でオボコ、イナ、ボラ、トドと名前を変えながら歳を取る。 『オボコい子供のボラはイナせな青年に育ちトドの詰まり

成人の日を前におもう

今から41年前の昭和55年に私は成人の日を迎えました。 大学進学を決め、年末に魚市場での仕事をやめて受験に向けて部屋にこもっていたと思います。 成人の日を境に何かが変わるわけではありません。 私の場合は父は仕事で日本にはおらず、兄は静岡で入院生活、母は病院勤務、家族はバラバラでした。 何も変わらない普通の一日でした。 若いその頃は全てに対して背を向けて生きていたように思います。 分不相応のアルバイト代を手にして高いばかりの難解な本を買い、大人の顔をして酒を飲んでいました。

手に取って感じた未来

一昨年、たぶん生涯で最後になるであろう転居をした。 駅まで歩いて5分、スーパーも市立病院も図書館も歩いて5分。 そして車を手放した。 思えば長くハンドルを握り続けた。 関西から愛知の実家までどれだけ走っただろうか。 郷里である愛知県豊川、豊橋はトヨタのお膝下のような土地である。 しかも隣接浜松市はホンダ、ヤマハ、スズキの発祥地である。 父たちはトヨタの車で通勤し、近所のお母さんたちはスズキの軽自動車で買い物し、ホンダ、ヤマハのカブや原付たちは私たちの足だった。 小学5年か

最近とんと目にしなくなった

今の子ども等は『霜柱』なんて知っているのであろうか。 私たちが子どもの頃、本州中部に生息していた私たちでもこの本当の寒が訪れる時期に目に出来、体感出来るものであった。 小学校の集団登校時に並んだ列が全員アスファルトの道を外れる。そしてザクザクと霜柱の上を我先にと歩くのである。あの心地よさは自身で踏み込んでみないと分からないかも知れない。土の表層を小さな氷の柱が押し上げて地表が膨らんでいる。そこにザクっと自分の靴の形を押し付けるのである。どうであろう床にウエハースを敷き詰めて