見出し画像

海老を尻尾まで食べる人

私はいつも海老の尻尾を残す。実習先の会社での、今日の日替わり弁当は天丼だった。うまい。


それは至極当然だと思っていた。昔から食べないものだったから。
尻尾の中が特別美味しいのも知っていた。
ただいつも、尻尾の中をほじくる行為の面倒くささが勝つ。だから尻尾の中は美味しく感じるのかもしれない。

私の好きな人は、海老の尻尾まで食べる。

なぜだかはわからないけど、食べている。初めて見たその時はただ、「食べる派か〜」くらいに思っていた。



ここまで話しといてあれだが、私は海老の尻尾を食べたことがある。硬い殻ごと食べたことがある。

なぜか今日天丼の海老の尻尾を、お弁当の隅に寄せる時に思い出した。
昔付き合っていた人も海老の尻尾まで食べていた。曖昧だけど覚えている。

「尻尾もたべるの?!」と驚いたことがある。確か初めて天ぷら屋さんに行った時だっけか。

その時になんとなく食べなきゃいけない気がして、初めて尻尾を食べた。

私は確か嘘をついて、「意外と美味しい」と言って、それ以降海老の尻尾が出てくると食べ続けていた。

内心は硬い殻が、軟弱な歯茎に刺さって、わたしには向いていないと思った。味は海老だけど、噛みきれない海老って感じがした。

不愉快とまではいかないけど、好きではないし、良い気分でもないなという感情だった。

当時の私は自分を取り繕うのに必死で、本来の自分がわからなくなっていた。だから何も考えず、本能で海老の尻尾を食べていた。美味しくないのに食べていた。

そんなことも、今日天丼を食べるまで忘れていた。



先ほども言ったが、私の、今好きな人は海老の尻尾まで食べる。

記憶は定かではないけど
おそらく最初から海老の尻尾を彼に贈呈し「美味しいの?」なんて聞いていた。それ以降は好きな人に海老の尻尾をあげている。(記憶が曖昧なくい少ないけれど)

彼はその都度、やはり当たり前のように、少しだけ嬉しそうに食べている。


この話は、前付き合っていた人と、今好きな人を比べているわけではない。さらさらない。

前までの私と、今の私を比べてびっくりしている。

私、変わってたんだな。


いつの間にか、自分を消すことをしなくなっていた。
好きな人と、一緒に過ごすようになってからだろうか。

なんとなく合わせないといけない空気とか、
なんとなく、こう言っといたほうが平和的なんじゃないみたいな、毎日やり過ごしてる感がたったここ何ヶ月かでなくなっていた。

全く無くなった訳ではないし、多分癖になってて気づいてない部分もあるけど。

少なくとも、希死念慮なるものは知らない間に小さくなっていた。

確かに前のほうが平和的で、誰かがちょっとだけ楽になる対処だったとしても、
私は楽にならないし、得をしたかというとそうでもない。

面倒な事を考えないといけない時間が減って
好きな事をどうやって楽しむかと考える時間が増えた。

好きな人と、好きな友達と、どう楽しむか考える時間が増えた。

たまに毒をぺっと吐いちゃうこともできるようになった。しかも確信犯で。

それが一般的には良いとは言えなくても、私的には快挙なのだ。

これからも多分海老の尻尾は好きな人にあげるし、面倒な事はうまく交わして生きていく。
ちょっとキモいって思われるかもみたいなことも、好きな事はお構いなしにチャレンジする。

それでいいし、きっと世の中の楽しい人たちはそういう工夫をしている。


ありがとう海老の尻尾。

ありがとう好きな人。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?