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集合的記憶が持つ意味について~林志弦(イム・ジヒョン)「犠牲者意識ナショナリズム:国境を超える「記憶」の戦争」

2022年7月31日刊

なかなかに論争を呼びそうな著作でもあり、長大かつ重厚な論考なので読み通すにもかなりの時間とエネルギーを要した。そして様々に考えさせられると同時に学ぶところも多い著作だった。著者は現在、韓国・西江(ソガン)大学教授で同大学トランスナショナル人文学研究所長。ポーランドのワルシャワなどでも学び、戦争や植民地支配などでの加害者・被害者両方の歴史の「記憶」を研究・考察することを主にしている。

著者はここで、第二次大戦中のユダヤ人ホロコーストを巡るポーランド&ドイツ&イスラエルの関係を中心に論じており、韓国人歴史研究者だからといって、日本と朝鮮半島の所謂「歴史認識問題」を主に論じているわけではない。最終的にはそこに繋がっていくのだが、世界各国でいかに自国が「被害を受けた側か」「犠牲者が多いか」を競い合うかのような状況(それは日本のようなかつての帝国主義国でも同様)へのある種の疑義提示でもあり、そうした「犠牲者意識ナショナリズム」による自国正当化を乗り超えたところでの「国境を越えた記憶の連帯」の呼びかけでもある。

「ヨーコ物語」という、日系米国人が書いた「日本の敗戦後、朝鮮半島北部からの逃避行で受けた朝鮮人からの復讐・暴力の記憶」~また、ポーランドでのナチスドイツによる強制収容所での集団虐殺とは別に、ポーランド人自身がユダヤ人を虐待・虐殺していたという事実、根強い「反ユダヤ主義」現象と東欧諸民族間での「支配・被支配関係」「虐殺する側・される側が反転する構造」。世界中に顕在するそうした支配・被支配関係の複合的構造をどう捉えていくか。

著者はここで、戦争や植民地支配での「侵略国」と「被侵略国」の「犠牲者意識」において、圧倒的な非対称性~その両面を同じ次元で論じる事は決して出来ない事を繰り返し強調しており、その意味で、この著作は安易な「どっちもどっち論」では全くない。また、所謂「歴史修正主義・歴史否定論」に対しても明確に厳しく批判・反論を展開しており、そうした「歴史捏造歪曲」に対して融和的・妥協的なわけでもない。むしろ、左右の思想的価値観から一種の「陣営主義」に陥り、「自説に都合の悪い歴史的事実に蓋をする、もしくはその事実を過少評価する」ことを厳しく戒める。その姿勢には大いに共感・賛同する。

そして、終盤で特に大きく取り上げられる「ポーランドのカソリック司教たちによるドイツへの赦しと和解の手紙」~そこに著者は、日本と韓国(朝鮮半島)の「歴史認識問題」対立での「和解・解決」に向けたヒントを見るが、これは日韓の現在の政治状況を鑑みる限り、そう簡単なことではないだろう。当時(1965年)のドイツ&ポーランドとは状況が違い過ぎる。また、ここでの著者の主張は、ある意味、韓国で従軍慰安婦問題を主導的に担ってきた市民団体「正義連(旧挺対協)」に対する批判とも読めるので、韓国内の左派はそういう所に反発するかも知れない。

先日の、この著作を紹介したネット記事によると、この著作は韓国の主要メディアの書評では概ね高評価なようだが、左派系メディア「ハンギョレ新聞」は書評でこれを取り上げていないと言う。もし、韓国の左派論陣がこうした論考や問題意識を敢えて無視するようなら、それはいかにも狭量なことであるなあ~と残念ではある。

ここで重要なのは、国民国家として「戦争や虐殺・抑圧の記憶の取捨選択」がいかに自国に都合よくなされ、ある部分では別の意味を付加されたり削られたりするか~という点である。これは加害国・被害国どちらにも言えること。「集合的無罪」「集合的有罪」という捉え方が、いかに歴史の総体的事実の一面だけを見た恣意的な解釈の賜物か。

しかし正直、この著作で論じられている広範な事案について、私の考えもなかなかまとまらない。もう少し時間をかけてじっくり考えてみる必要があるのかも知れない。





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