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文章が映像になるとき。

書籍と映画の関係には複雑なものがある。

本の人気が出る。

するとおのずと持ち上がってくるのが映像化の話だ。

おもしろい話は映画にしてもおもしろい。
きっとみんなが見たがる!

という思考が働くのだろう。


以前は私も書籍が映画化されることは無条件に大歓迎だった。好きな作品に映像がつく。
考えただけでもうれしい。わくわくする。

けれども、これは作品にとっては必ずしも幸運な結果にはなるとは限らないのかも…と最近では考えを改めている。
いろんな本と映画のペアを見てきて思うのだが、100%映画化がうまくいった作品って、本当にごく一握りではないだろうか。


原作が好きであるほどに、映画を見た時「ああ、あのシーンは割愛されてしまったのか」とか、「この登場人物はこういう設定に変えたのか」とか。期待と少し違うものを見せられて面喰うことがある。

持論。本が映画化された途端、それは本を題材としたまったく別の作品になって、違う作者の物になる…と思っていたほうがいい。




 中学生の頃に宮部みゆきの『模倣犯』を読んだ。そこそこ厚みのある文庫本5冊に及ぶ超大作である。当時の私にしては読み終わったことに多少なりとも達成感を感じてしまうような、重みのある作品だった。

どっぷりと読後感に浸っていたところ、同作品に映画版があることを知る。
主演は仲居正広だった。
突き詰める性分。これは見てみたい!と、意気込んで手に取ってみたが。

結果は原作とは異なる安直な作りに、がっかりする羽目になった。まるで小説をもとにしたスライドショーを見ているかのような割愛具合だったのだ。

無理もない。小説5冊分の内容を2時間に収めることは難しい。
数年後に今度は坂口健太郎で、テレビドラマ化にお目にかかることになったが、こちらは映画の出来を挽回してくれる素晴らしい出来だった。


同じ作品なのにこうも違うのか、と愕然とする。

 予算やキャスティングなど、評価を左右する要素はさまざまあるが、結局のところ時間、尺の問題が大きいのかもしれない。
一口に映像化するにしても、それがドラマであるべきか、映画であるべきかということでも相性の良し悪しは発生してくる。
単に人気が出た作品を!ではなくて、適切な文献の量と適切な時間。
そこの見極めなのかもしれない。



映画も小説も円満な関係でどちらも傑作!

と文句なく思える作品と言えば、湊かなえの『告白』だ。


小説を読んでから映画を見た。
申し分なく、原作を裏切らない忠実な作りになっていた。
薄めの単行本一冊という分量。登場人物の独白というすっきりとしていて、演劇向きの文章スタイルが、余すところなく作品を描ききるという余裕を生み出し、映像化の幸運をみたのだろうと思う。


 東野圭吾の新参者シリーズも、阿部寛演じるドラマと映画と遜色なく、とても楽しい。
けれども見ていると、きっと難しいのだろうなと思うところはあって、『祈りの幕が下りるとき』には、映像冒頭で状況説明のテロップが入る。映像なのに、文字で説明する。
そうでもしないと、初めて見る人には複雑な設定の理解が難しいということなのかもしれないと思った。


書籍の分量が多く、より緻密な設定してあるほどに。内容がより精神的な心の動きを描く物にものなっていくほどに。映像化は難しくなる。

 ありのままをそのまま映像にしていけばいい、という単純なものではない。時間は限られている。取捨選択が必要になる。
何を捨てて何を優先するか、みる人のターゲットをどこに絞るか、どこまで説明するのか、映像化する上で出したい独自性は何か。
問題は様々に必ず発生してくるのだ。



そこでかなめになるのが映画監督の手腕だ。


 ジブリが手掛けた『ハウルの動く城』の作成に当たって、宮崎駿監督は原作の設定説明すっかりを省いた作り方をした。知っている前提で映画を作った。
だから、原作で明かされている前情報を知らない観客は、なぜ主人公の女の子がおばあさんになったり、娘に戻ったり、髪の毛の色が変わったりするのか、さっぱりわからない。


ゆえに、「なんだかよくわかんない映画だった」というぼんやりとした感想を引き出してしまうのだが、監督としては鼻からそういう人を相手にしていない。
というか、そうやって絞らないと何か説明チックな作品になってしまうし、主人公の心象によって変わる容姿の変化を、「これはこうだからこう」と言葉にしてしまっては芸がない。
本来の描きたい物語の良さが失われる。
それを防ぐために、ターゲットは「原作も知っている人」に絞り込まれている。


 アメリカの超定番古典。
スコット・フィッツ・ジェラルド作『グレート・ギャツビー』の場合。

この作品はアメリカで学校の教科書にも載るくらい、昔から親しまれている作品であるが、それゆえに何度も映画化のリメイクを繰り返している。

 最近では、2013年に映画化された。
手がけたバズ・ラーマン監督は映画化にあたって、1920年代ジャズ・エイジで好景気に沸くアメリカを、現代風にアレンジし、レオナルド・ディカプリオを主役に据えて、豪華で派手に描いて見せた。


 時代考証の観点から言えば、「あの時代にあんな派手な今時の車はない」とか、「あんな服装はしない」とか「HIPHOPが流れているのはおかしい。」とか、作品のあるべき時代設定と、映画のズレをいくらでも指摘することができるし、実際に指摘されているのだが…。

 ここで彼がやりたかったことは、あくまでも現代風にアレンジすることであって、何度もリメイクされ続けているこの作品に新鮮味や独自性を持たせることにあったのだと思う。
それに今風のおしゃれな1920年代なんて、映画の中だけでしか見られない、視覚に訴える醍醐味のようなものも感じる。
現実ではない物語なのだから、そういう遊び心はあってよいと個人的には思う。

けれども、さじ加減が難しい。
それが嫌な人もいる。

その一方で、セリフはいちいち原作に忠実で、本好きからすると監督の作品への愛を感じて嬉しくなってしまうから、この作品はとても好きだ。結局は原作への愛情が感じられるかどうか、というところも大きいかもしれない。


 以前も取り上げた『ティファニーで朝食』をの場合、作者のカポーティは映画化の話しがもち上がった時、ヒロインはマリリン・モンローに演じてほしいという希望を持っていた。

カポーティとマリリンは友人同士で、彼は彼女からインスピレーションをうけて、あの話を書いたのである。けれども、当時のマリリンは、娼婦のようなイメージの女性を演じることに抵抗があり、この話を断った。そして結局、オードリーが演じることになった。

つまるところ、映画もオードリーっぽく仕上がる。映画と違って原作は恋愛がテーマのものではないし、ハッピーエンドとは言い切れない。カポーティが言いたいこととはいささかずれている。

けれども映画だけを見た人は、『ティファニーで朝食を』という話はこういう話だ、と理解する。

彼はオードリーが演じるということは最終的に承諾し、歓迎もしているのだが、原作にこの映画のイメージの付きまとうことが 、幸運なのかは微妙なところである。(訳者である村上春樹も指摘している。)



というように、いったん映画化が行われると、たとえそれが原作によるところであっても、もはやそれは原作者の物ではなく、映画監督の作品になるのだ。

そういうリスクがあるからこそ、映画化を断る作家がいるのだろう。

本と映画を比べると、やはりとっつきやすいのは映画。


情報量が多くてオリジナルなのは本である。

映画が入口となって、本を読んでみたくなることもあるだろうけれども、結局その先で同じ期待どおりの物が見れるとは限らない。逆もまたしかり。

前情報として何を知っておくか、ということも観た時の満足度を左右する。けれども知りすぎてもがっかりすることがあるので、本から入るべきか、映画から入るべきかということは、一概には判断できない。
もはやタイミングと運によるところが大きい。

けれども、映画を見て「なーんかつまんなかった」「よくわかんなかった!」と思っても、それは映画だけのせいではないかもしれない、ということは言える。

知らない要素が隠れているだけかも。

原作はどうなっているんだろう、監督はどうしてこういう描き方をしたんだろう。
出てきた疑問点にあたることで、理解不能な作品も、面白みを最大限に味わい尽くせる、好きな作品になるかもしれない。

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