穏やかに夢中になること
形あるものでも、形のないものでも。
何かを作ること。
料理をすることも、洗い物をすることも、手入れをすることも。
そこに特別なことは何もないかもしれません。
日々繰り返される、当たり前のこと過ぎて、時には退屈にも面倒にも感じられてしまうこともあるのかもしれない、ありきたりのこと。
私はここ数年、ほとんどフライパンばかり作ってきましたが、そんなにフライパンが好きで、フライパンが作りたくて作りたくて仕方がなくて作り続けているのかと言ったら、それはやっぱりちょっと違うかもしれません。
何かが作りたくて作るのではないかもしれない。
料理がしたくて料理するのでも、洗い物や手入れがしたくてするのでもないかもしれない。
だからといって、仕事だからとか、そうしなければならないからと言うのは、それもやっぱり違うのでしょう。
例えばそれはみな、食べることに繋がっていて、食べること、栄養を接種することは、生きていくために欠かすことのできない、根底で大事になることのひとつだと言えるような。
生きていくこと、などというと大げさに聞こえてしまいそうですが、ごくごく当たり前の自然なこと、特別なことなど何もないような、無理なく繋がっていくこと、暮らしていくことと言ってもいいかもしれません。
その中に、楽しみもあれば喜びも嬉しさもあり、あるいは苦しみや悲しみ、辛さもあるかもしれません。
一つ一つの動作や感情を言葉にしてしまったり切り取ったりしてしまうと、区別され分断されてもしまい、避けてしまったり向き合わなくなったり、感じたり気づいたりしにくくもなってしまうかもしれません。
何かを手に、何かをなす。
例えば何かの道具を使って、何かを作ったり、なにかをしたり。
その時々にふと感じる一つ一つを大切に思えたら。
暮らしていくことの中に、
生きていくことそのものの中に、
つないでいくこと、
つなげていくこと。
自分のためかもしれない、家族のためかもしれない、大切な誰かや、何ものでもないなにかのためにかもしれない。
暮らしていくこと、生きていくこと、命をつないでいくことそのものに、穏やかに夢中になれたら。
私はそんなものを作れたら、というよりも、切り取られてしまうことなく区別も境界もなく連綿とつながっていくあらゆるものの中で、そんなふうに生きていければという、ただそれだけのことなのかもしれません。
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