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過去の人物を道徳的に評価すること

「今の価値観で過去を裁くな。」 このような主張を見たことはないだろうか。この主張は、過去の不当な免罪に都合よく使われることがほとんどだが、一分の理もないわけではない。現在の倫理的基準からすれば不当だが、とはいえ当時の人々がそれに気付くことが出来たかというとそうではない、という事例はありふれている。ここで問いが浮上する。我々は時間を超えた道徳判断を差し控える他ないのか。 哲学者のミランダ・フリッカーは、『認識的不正義』でこの問題に取り組んでいる。この本では、 知の伝達に関わる

    • 「法はどのようにして文学に似ているか」

      ロナルド・ドゥオーキン『原理の問題』第6章の要約 裁判官は、係争中の案件について、どのような扱いをすることが法に適っているのかを判断する。しかし、ケースによっては、参照すべき法に適切な扱いが明記されていないことがしばしばある。例えば、アメリカ合衆国はついこの間まで、女性が妊娠中絶を行う権利をプライバシー権によって正当化していた。しかし、当然のことながら、プライバシー権に関する憲法の条項に妊娠中絶に関する記述はない。このようなケースで、裁判官は一体何をしているのか? 法を解釈

      • 「お前、ふざけんなよ」の倫理学

        誰かに、何か不当な扱いを受けたとき、我々には二通りの対処方法がある。一つは、周囲の同情的な関心を惹起することである。第三者が私の苦痛を憐んでくれれば、その人が私への加害をやめさせてくれるかもしれない。他方、「お前、ふざけんなよ」と、加害者に自分で抗議するという方法もある。   この二つの方法の違いはなんだろうか。前者では、苦痛の停止にこそ力点が置かれており、それを遂行するのは誰でもよい。苦痛の停止は、それを最も首尾良く実行できる位置に偶々居合わせた人物に委ねられる。この方法の

        • ドゥルシラ・コーネルの妊娠中絶論

           フェミニズム法学者、ドゥルシラ・コーネルの『イマジナリーな領域:中絶、ポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメント』における妊娠中絶擁護論の要約 差異と平等のジレンマ——コーネルの基本戦略 差異を認めつつも平等を実現するにはどうしたらよいだろうか? 例えば、男性と女性の身体には明らかな違いがあるので、両者の抱えるニーズは同じではないが、それでも両者を平等に扱うとしたら、どのような方法が考えられるだろうか? まず、差異には目を瞑り類似性を基盤として平等を訴えるリベラル・

        過去の人物を道徳的に評価すること

        • 「法はどのようにして文学に似ているか」

        • 「お前、ふざけんなよ」の倫理学

        • ドゥルシラ・コーネルの妊娠中絶論

          偶然性・アイロニー・連帯

          アメリカの哲学者、リチャード・ローティの著作。本書の中核は、「私的な完成と公共的な責任の統合を諦め、リベラルなアイロニストたれ」という主張にある。 伝統的に、真理と道徳的な良心の間には何らかのつながりがあると考えられてきた。私たちの社会の道徳的発展は、合理性の進歩であると。ところが、真理が宿るのは、時間の相対性を逃れているとされる、世界の側でもなければ、理性の側でもない。むしろ、歴史的な偶然によって採用される言語の中に宿る。良心もまた然りである。だとすれば、私たちの道徳的な

          偶然性・アイロニー・連帯

          私が分裂したとして・・・

          英米系の哲学ではしばしば、自己同一性や人格をめぐる問題を考えるにあたって、「分裂の思考実験」を用いることがある。これはどういう思考実験かと言うと、ある人物の脳を二つに分割するなり、オリジナルの身体を破壊して複数のコピーを作るなりして、当の人物の分裂体を作るという思考実験である。こんなこと出来るわけねーだろと思う人も大勢いるだろうが、哲学者というものは「丸い円」のような言葉の定義から言ってそもそも不可能な例以外はその内できるようになるでしょ、くらいの気持ちで思考実験を行うもので

          私が分裂したとして・・・

          フェミニズムとベジタリアニズム(キャロル・J・アダムズ、『肉食という性の政治学』)

          「男なら肉を食え!」というような文句を聞いたことはないだろうか。健康な男性は肉を好むものというイメージは、割合人口に膾炙しているものであるように思われる。そこに、男性-肉食-力強い/女性-菜食-か弱い、という表象の連関を思い浮かべても、それほど無理はないだろう。現代的な例で言えば、性的活動に対する姿勢をマークする草食系男子/肉食系女性という言葉は、それが一般的にイメージされる男女の在り方から逸脱しているが故に流行する。 キャロル・J・アダムズの『肉食という性の政治学』(Th

          フェミニズムとベジタリアニズム(キャロル・J・アダムズ、『肉食という性の政治学』)

          真理の勇気

          『ミシェル・フーコー講義集成 13 真理の勇気: コレージュ・ド・フランス講義1983-1984』の要約 古代世界にはパレーシア(率直な語り)という実践があった。それは、話し相手との関係悪化を恐れることなく真理を語ることである。フーコー曰く、元々は議会などでポリスのために行うものだったが、徐々に個人の生き方を問い直すための語りになっていった。 パレーシアは「生き方」を問題にする。それは、倫理的であると同時に美学的でもある関心の対象としての生である。パレーシアは、対話者に、

          真理の勇気