偶然性・アイロニー・連帯
アメリカの哲学者、リチャード・ローティの著作。本書の中核は、「私的な完成と公共的な責任の統合を諦め、リベラルなアイロニストたれ」という主張にある。
伝統的に、真理と道徳的な良心の間には何らかのつながりがあると考えられてきた。私たちの社会の道徳的発展は、合理性の進歩であると。ところが、真理が宿るのは、時間の相対性を逃れているとされる、世界の側でもなければ、理性の側でもない。むしろ、歴史的な偶然によって採用される言語の中に宿る。良心もまた然りである。だとすれば、私たちの道徳的な進歩は、「そこにある」真理/「人間に共通の」理性の表現ではなく、たまたまリベラルな語彙が用いられるようになったことの結果である(だからこそ、それは未来に失われてしまうかもしれない)。
このことに自覚的なリベラルは、自らの語彙を常に疑い続けるアイロニストである。これは彼の主張を弱めるだろうか? そうではない。リベラル・アイロニストになることには二つの効用がある。
一つ目の効用は、公私の分割によって哲学の無用な争いを避けられる、というものだ。アイロニストである彼女は、公共性の言葉が理性の権威を借りて私的な事柄を圧倒すべきだとは考えていないし、反対に、私的な自己創造を追求する際の論理が公共的な政治の世界をも規定するべきだとは考えない。つまり、ハーバーマスのように理性を問いに付すデリダの哲学を危険視する必要はないし、ハイデガーやニーチェのように自分で拵えた新しい哲学に社会を従わせようとする必要はない。我々が歴史的に継承してきたリベラルの言葉で希望を述べる公共的な営みと、受け継いだ言葉に満足することなく新しい言語で自己を創造しようとする私的な営みは、単に別種の事柄だからだ。こうして、公共的にリベラルであることと私的にアイロニストであることが両立する。私たちは、ハイデガーやデリダを通じて、自己を記述する新しい言葉を手に入れようとするのと同時に、ミルやロールズのように希望を語ることができるのだ。
二つ目の効用は、普遍的な理性への固執を捨て、リベラルな目的(残酷さの回避)の達成のためにもっと役立つ言葉を採用できる、というものだ。確かに、人間に共通の理性というレトリックが、我々の道徳的な進歩の原動力となった時代はあった。だが、今やその力は失われている(現代の惨状を見るがよい)。ならば、人間本性という存在しない自己の中心に基づいて、一飛びに人類の連帯を語るのではなくて、苦しみや屈辱を受けやすいという、もっと表面的な類似性に基づいて、閉じられた連帯のサークルを漸次的に拡張していった方がよいだろう。そこで重要になるのは、人類を理性に基づいて一括りにする哲学ではなく、我々の関心の外側にいる具体的な苦しみを記述することに長けているが故に、偶然的であるしかない「我々」の範囲を拡張してくれるジャーナリストやルポライターの仕事である。
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