過去の人物を道徳的に評価すること

「今の価値観で過去を裁くな。」 このような主張を見たことはないだろうか。この主張は、過去の不当な免罪に都合よく使われることがほとんどだが、一分の理もないわけではない。現在の倫理的基準からすれば不当だが、とはいえ当時の人々がそれに気付くことが出来たかというとそうではない、という事例はありふれている。ここで問いが浮上する。我々は時間を超えた道徳判断を差し控える他ないのか。

哲学者のミランダ・フリッカーは、『認識的不正義』でこの問題に取り組んでいる。この本では、 知の伝達に関わる不正義が認識的不正義として位置付けられ、特に、話し手のアイデンティティに対する偏見によって、聞き手が相手の発話の信頼性を不当に低く見積もる証言的不正義が論じられている。フリッカーは、このような不正義の例として、アンソニー・ミンゲラの映画『リプリー』を挙げる。殺害されたディッキーのパートナーである女性のマージは、リプリーが犯人であると、ディッキーの父・グリーンリーフに訴える。ところが、そんなマージに対し、グリーンリーフは、彼が女性に対してもつ偏見が故に、「女の勘とは別に、事実というものが存在するのだよ」と言い放つ。

さて、グリーンリーフのこの態度は道徳的な非難に値するのだろうか。フリッカーの答えはNoだ。確かにここでは偏見に基づく不正義が起きているが、ジェンダーに対する批判的意識が十分に利用可能になっていない1950 年代という時代を鑑みれば、彼がこのような過失を避けるのは極めて難しいと言える。したがって、彼を非難することはできない。とはいえ、フリッカーは、ここですべての判断を差し控えるのではなく、グリーンリーフに対して我々がそれでもなお感じる道徳的な憤りがあると指摘する。彼女はこれを、「失望」(disappointment)と表現している。道徳的生活の本性を知る人であれば分かることだが、道徳という営みはルールブックをひたすら参照するようなものではなく、ケースによっては何らかの創造性が求められる。というのも、実践においては常に新しい事例が発生するからだ。ここから、フリッカーは、手持ちのカードだけで行うありきたりな道徳的行為と、創造的な道徳的進歩と言える並外れた道徳的行為の区別を導入する。これにより、我々はグリーンリーフの行為を、ありふれてはいるが最善には達していないと判断することが出来る。「昔の人だから」 と十把一絡にしてしまうのではなく、時代の隔たりに即したきめ細かな態度を決定することができるのだ。

フリッカーはこのように論じたのち、菜食主義的生活を送ることができない自分に対し、未来の人たちが失望を表明する可能性について言及している。私もヴィーガンではないが、自分のスタンスが、ひょっとすると失望どころか非難に値するかもしれないと考えることがある。なぜなら、少なくとも学ぶ意欲を持った我々にとって、食肉システムの不正さは十分に認識可能なものであるからだ。とはいえ、グリーンリーフとは異なり、ある行為の不正さを理性で十分把握している場合でも、それに動機付けを伴わせるのは困難である。それは、我々の弱さでもあるし、食肉を当然とする文化の中で育ったということにも起因している。並外れた道徳的行為をするのはかくも難しい。このことを理解すれば、我々は、上の世代に対する無闇な免罪でもなければ、一方的な断罪でもない態度を醸成することができるのではないだろうか。

改めて「過去を現在の基準で裁くな」という言説に戻ろう。増田義郎『アステカとインカ 黄金帝国の滅亡』によれば、征服者コルテスは神の裁きを恐れ、インディオの奴隷化の是非について考え続けるよう相続者たちに遺言を与えていたようだ。無論これは、最後の最後で赦しのために一つ徳を積んでおく、程度の打算的な振る舞いなのだろう。しかし、同時に、審判と後世への信が可能にする行為であるとも思う。私はキリスト教徒ではないから、超越的で絶対的な裁きを信じてはいないが、それでも後の世の人々による評価は想定することができる。時間を超えた道徳的評価への拒絶が示すのは、こうした後世の感覚の喪失に由来するニヒリズムではないだろうか。しかし、当たり前のことだが、自分が親を否定したように、子供たちもいつかは自分を否定するものなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?