私が分裂したとして・・・

英米系の哲学ではしばしば、自己同一性や人格をめぐる問題を考えるにあたって、「分裂の思考実験」を用いることがある。これはどういう思考実験かと言うと、ある人物の脳を二つに分割するなり、オリジナルの身体を破壊して複数のコピーを作るなりして、当の人物の分裂体を作るという思考実験である。こんなこと出来るわけねーだろと思う人も大勢いるだろうが、哲学者というものは「丸い円」のような言葉の定義から言ってそもそも不可能な例以外はその内できるようになるでしょ、くらいの気持ちで思考実験を行うものである。

さて、例えばあなたが事故に遭ったとしよう。あなたの身体は完全に破壊されてしまったが、脳だけは傷ひとつなく残っている。あなたの治療にあたった医師は、何を思ったか、あなたの身体の完全な複製を二つ作り出し、あなたの脳を左右ふたつに分割して、それぞれに挿入する。やがて二人は別々の病室で目覚め、両方とも同じ記憶を持っており、自分は何々だ、と同定する。ここであなたは、左右どちらの人物として生き残ったのだろうか。

デレク・パーフィットという哲学者は、この問題には答えがないと考えた。なぜなら、左右どちらの人物が私であるのかを決定する根拠がどこにもないからだ。どちらかが私であるに違いないと考えてしまうのは、あなたが記憶や身体から切り離された「デカルト的自我」を信じているからである。だが、パーフィットからすれば、そんなものは存在しない。自己というのは、彼の用語で言えば、R関係(記憶や性格などの心理的継続性)に尽きるのであり、それ以上のものではない。通常の世界では分裂など起こらないから、我々は、人格というものは一対一関係のものであると考えてしまいがちだが、それは別に当たり前のことではない。分裂のケースでは、私のR関係が二つに分岐するという通常では起こり得ない事態が生じているだけであり、デカルト的な意味での「私」の生き死になどという問題はそもそも存在しないのである。それでも、強いて言うなら、ここでは「私は死んでしまった」と記述するのが最善だろう、とパーフィットは言う。なぜなら、先にも述べた通り、どちらが私かを決定する根拠がないからである。

パーフィットの主張が問題含みなものとなるのはここからである。ここから彼は、分裂という出来事は我々の人生にとって悪いことなのか、という問いに移行する。そして、分裂は普通の生存と同じくらいよい、と主張する。それどころか、分裂は通常の生存よりも更によいかもしれない。なぜなら、私が分裂することによって、「小説家になりたい」という夢と「哲学者になりたい」という夢を両方叶えることができるかもしれないからである。おまけに、寿命も二倍になる。いいこと尽くしである。

だが、この主張には流石に違和感を覚える人が少なくないのではないだろうか。普通人は、自分の人生の線は一本であることを望むのではないだろうか。パーフィットはおそらく、「我々の人生にとって重要なこと」は、哲学的事実に従うべきだ、と考えている。デカルト的自我なんて存在しないということが哲学的に明らかになったのだから、自分のR関係が分岐しないなどという偶然的でしかない事柄に固執するのはおかしい、というわけである。

これに対し(厳密に言ってこれに対抗してなのかはよく分からないが)、ピーター・アンガーという哲学者は、いや分裂は悪いのだと主張した。分裂体は、最初は左右どちらも全く同じ心身を持っている。だが、両者の人生はいつか分離していって、別の人格と言っても差し支えがないほど似ても似つかないものになるだろう。このように、両者のキャリアがいずれも評価に値するものである場合、オリジナルの私は、自分の人生は果たしてどちらのものとして続いていくんだろうかと悩み、自らの生をいずれにも移し入れることができなくなる。つまり、目線が泳ぐのである。これをアンガーは、焦点の喪失と呼ぶ。反対に、仮に分裂したとしても、両者が全く同じキャリアを描く場合や、どちらかの人生が意図的行為の欠如や昏睡状態といった、人生を評価するための土台をそもそも持っていない場合は、この喪失の度合いは少なくなる。つまり、分裂体が評価に値する、異なる内容の人生を生きる時、人生の焦点が失われ、オリジナルであるところの私は、こう言ってよければ未来の展望がよく分からなくなってしまうのである。

オリジナルと複製の問題

ついでに言えば、パーフィットは、オリジナルの恋人が死んで、複製が作られたら、その複製に愛を移し替えればいいじゃん、と主張している。なぜなら、重要なのはR関係であり、恋人のレプリカにはその全てがあるからである。これに対しアンガーは、我々は恋人が持つ諸々の性質ではなく、恋人その人を気にかけていると考える。このような大事な人やモノそのものが持つ価値を、アンガーは、singular goodと呼んでいる。だが、パーフィットからすれば、恋人その人など存在しないのだから、それは貰った時と同一の結婚指輪を持っていたいという関心と同じで、感傷的なものに過ぎないことになるだろう。

私は、このオリジナルの人やモノに対する関心は、singular goodsというよりは、もっと別の観点から 説明した方がよいと思っている。例えば、あなたに祖父がいて、祖父が彼の家の柱に、あなたの成長の記録をつけてくれていたとしよう。だが、月日は経ち、祖父は死に、その家は取り壊されてしまった。悲嘆に暮れるあなたを慰めるために、天才大工集団がその家を、柱の成長記録から埃の位置まで完璧に再現したとしよう。この時、あなたは、オリジナルの家に対する大切さと同程度の大切さを家のレプリカに付与することはないだろう。これは、家の中にある生活の痕跡や、柱についている成長の記録が、祖父によるものではなく、天才大工集団によるものだからである。同じく、結婚指輪のレプリカは伴侶がくれたものではないし、恋人の複製の心が持つ記憶は、私ではなく複製機が作ったものである。我々は、ある事物が持つ性質が誰によって発生したものなのかを気に掛ける。これを仮に、(とっくにそういう議論があるかもしれないが)署名的性質と呼ぶとしよう。我々がオリジナルの人やものにこだわるのは、この署名的性質の故なのではないだろうか(署名とか言うと、正にオリジナルと複製を脱構築するようなデリダの議論が思い浮かんでしまうが・・・)。

参考文献

Parfit, Derek.(1984). Reasons and Persons, Oxford University Press.(『理由と人格』、森村進訳、1998年、勁草書房)

Unger, Peter.(1992). Identity, Consciousness, and Value, Oxford University Press.

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