ドゥルシラ・コーネルの妊娠中絶論

 フェミニズム法学者、ドゥルシラ・コーネルの『イマジナリーな領域:中絶、ポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメント』における妊娠中絶擁護論の要約

差異と平等のジレンマ——コーネルの基本戦略

差異を認めつつも平等を実現するにはどうしたらよいだろうか? 例えば、男性と女性の身体には明らかな違いがあるので、両者の抱えるニーズは同じではないが、それでも両者を平等に扱うとしたら、どのような方法が考えられるだろうか?

まず、差異には目を瞑り類似性を基盤として平等を訴えるリベラル・フェミニズムの立場がある。男女は同じ「人間」であるにもかかわらず、扱いに差があるのなら、それは差別である。だがこの平等観は明らかに実質的な権力勾配を考慮することができない。例えば、ハラスメントやポルノグラフィに関わる暴力の被害は、実質的には女性が標的にされやすいにもかかわらず、形式的には男女双方に起こり得るので、女性に対するそれを防ぐ特別な対策は必要ないことになる。これでは、男女を隔てる実質的な差別を解消することにはならない。

 では、性差の認識を出発点とし、それに関する実質的な差別の解消を目論むラディカル・フェミニズムはどうだろうか? キャサリン・マッキノンは、現状の男女差別はファックする者/される者というジェンダー・ヒエラルキーに基づいているので、いくら形式的な同意があろうと男女差別に基づく実践(対価の存在する性関係やポルノグラフィへの出演)は全て不正であると考えた。なるほどこの平等観は実質的格差の改善には貢献するかもしれないが、女性を常に劣位に置かれた保護対象として表象することで差別的なジェンダー構造をそれ自身反復してしまう。

 ではどうすればよいのだろうか? 同じ「人間」であるという普遍性を強調するリベラルな平等観は、当の「人間」が実際には西洋の白人男性を抽象化したものであるとしばしば非難されてきた。それに対抗するラディカル・フェミニズムの主張は、常に男性から性的対象として扱われるという、女性がマイノリティとして持つリアリティを基盤に据え、「普遍性」の欺瞞を暴こうとする主張であると言える。だが、マイノリティの主観に依拠しようとする戦略は、より抑圧された者の立場に寄り添える者は誰かという際限のないゲームを生み出してしまう(従来のフェミニズムも、実は白人女性やシスジェンダーの利益のことしか考えていない、というように)。普遍性を主張すれば欺瞞に陥り、弱者のリアリティに依拠すれば平等を実現するための制度が構築できなくなる。フェミニズムはジレンマに陥っているように思われる。

 このジレンマを解消するために、コーネルは、実質的により多くのマイノリティを包摂することのできる普遍性を求めるという戦略を取る。確かに、女性を含めたマイノリティに関する差異の精緻な分析は重要であり、広義のフェミニズムはそれを続けるべきではあるが、それは、法の領域における平等のデザインという作業に直接挿入されるべきではないと彼女は主張する。なぜか? 正義はある者の主観を完全に代表することはできないからだ。この意味で、フェミニズム法学は「限界ある正義」という発想を受け入れるべきである。これは、差異ある者同士の平等を諦めるということではない。重要なのは、あらゆる者を実質的に包摂することができる普遍を実践理性を介してデザインするということであり、それでこそ、非フェミニストとの「重なり合う合意」が可能になる。

イマジナリーな領域

 真に普遍的な平等理論を打ち立てるためにコーネルが依拠するのは、ロールズの契約論である。ロールズは、一定の能力を備えた各人格が、道徳的推論を歪めてしまう現実の権力勾配を無効化する無知のヴェールにおいて実践理性を働かせれば、社会契約が結ばれ、正義に適った制度が生み出されると考えた。契約論的思考とは、人々がこのようにお互いを平等な存在として認め合うことを取り決める契約をした「かのように」考えるということである。こうして、現実においては偶然的な格差によって曇らされてしまう道理がクリアーになる。

 しかし、コーネルはこれをそのまま受け入れるわけではない。ロールズの理論では、実践理性を行使して社会契約を結ぶ人格が、あたかも最初から存在したかのように所与のものとして考えられている。しかし、実際には、人が長期的な目標をもち、その実現のために必要な手段を考えるための実践理性を備えるためには、多くのケアと適切な条件が必要になる。それに対するニーズはしばしば満たされていない。したがって、正義に適う平等を考えるなら、所与の人格間の平等で満足するのではなく、原初状態「以前」の時間へと遡行し、「人格になる」ための条件の平等をも追求する必要がある。

 では、コーネルにとって人格になるとはどういうことか。それは、一つのまとまりを持った存在として個体化するということである。しかし、このプロセスは原理的に完遂されることはなく、完全なる全体性を備えた人格は常に可能性に留まるので、重要なのは、全体であることを想像することができるという機会の平等な保護である。だからこそ、イマジナリーな領域が重要になってくる。

 この発想は、ラカンの鏡像段階論に依拠している。ラカンの理論では、人間の幼児が鏡に映った自分の姿(あるいは、鏡像としての他者)を見るとき、未だ実現されざる身体的統合性(bodily integrity)の予期が行われる。このプロセスは乗り越えられることなく続き、人間は常に他者の像にまだ見ぬ自己の全体像を見出す。この意味で、未来とは他者である。

 しかし、自己の将来における全体像を思い描くという権利は、マイノリティにおいては毀損されている。なぜなら、マジョリティによって性的ファンタジーを押し付けれられるからである。ある者が自己イメージを形成するにあたって、他者をそのための単なる道具として表象するならば、これは平等の要請に反する(例えば、男性の理想的な自己イメージは多くの場合、女性の所有と結び付いている)。したがって、マジョリティの想像作用によるマイノリティの「格下げ」を禁止し、イマジナリーな領域を平等に保護することで、個体化のためのミニマルな条件を満たし、各人の「自己尊重」という基本財を確保しようというのがコーネルの企図であり、これは十分な普遍性を持つ。

身体的統合性の観点から見た妊娠中絶論争

 では、コーネルの「イマジナリーな領域の保護」という観点からは、中絶問題はどのように分析されるのか? 中絶を禁止するということは、女性身体の一部である子宮が、女性自身ではなく国家(男性)の想像力に委ねられるということである。中絶規制を叫ぶ保守派は、胎児の生命と中絶の要求を対立するものであると考えるが、これは妊婦と胎児を暗黙のうちに分離しており、胎児が女性身体の一部であるということを忘却している。保守派にとって女性とは胎児のための透明な容器であり、母親以外のものではない。しかし、全ての人々に自己の全体像を自分で思い描くというイマジナリーな身体的統合性への権利が認められるべきなのであれば、中絶の禁止はまさに女性性の格下げである。それは、①女性の身体的統合性を破壊し、②それを母的機能に還元するという意味で、不正なのである。重要なのは、透明な容器としての女性身体は客観的な視覚情報ではなく(悪しき)想像力の産物であるということだ。このことを鑑みれば、女性身体や子宮の表象の仕方が、胎児の地位や中絶の認識に決定的な影響を与えるということが分かる。

 ある日突然自分に接続されたヴァイオリニストに胎児をなぞらえるジュディス・ジャーヴィス・トムソンの議論は、胎児と女性の対立イメージを踏襲してしまっている。トムソンは、有名なヴァイオリニスト(≒胎児)が生きながらえるために私の身体に接続し、私の臓器を無断で使用していたとしても、ヴァイオリニストを助けるために私が自己の身体を彼に貸し続ける義務はあるまいと主張し、妊娠中絶の権利を擁護した。この議論は二重の意味で妊娠のユニークさを捉え損なっている。一つは、先に述べたように胎児を女性とは独立した人格として描き出していることである。もう一つは、中絶権の否定の不正さが始まる時間に対する認識である。この思考実験から読み取れるのは、トムソンにとって、中絶権否定の不正さが開始されるのは、覚醒して自分がヴァイオリニストに接続されていると分かった瞬間、つまり、望まぬ妊娠が発覚した瞬間である。なるほど、確かにこの瞬間においても、女性は自己の身体の全体像を自分で想像する権利を奪われていると言えるだろう。しかし、先に述べたように、身体的統合性とは自己の全体像を「予期」する点で、「未来」という時間に関わっている。したがって、中絶権の禁止が女性の身体的統合性を脅かすのは、望まぬ妊娠が発覚するずっと前からのことであると言える。たとえ今悲惨な状況にないとしても、将来望まない妊娠をした際に子供を中絶するという選択肢が閉ざされていれば、その時点で彼女は自身の未来を自由に思い描く権利を奪われているのである。

中絶権再考

 中絶権が身体的統合性への権利として読み変えられるならば、権利の構成の仕方も変化する。中絶権に関する法的議論の雛形となったロウ対ウェイド裁判では、中絶権がプライバシー権として構成された。しかし、それは、中絶するかしないかの「選択」を「放っておく」ということである。この考え方は二重の意味で誤っている。まず、中絶の「選択」というレトリックは、身体を統治する主体という男性的な幻想の産物である。そもそも、自己の身体に完全なコントロールを及ぼすことができるのであれば、中絶権など最初から必要ない。幻想として考えられた男性性に収斂させる形で性差を消去するこうしたレトリックは、次に、中絶権を、所与の無性な人格が「放っておかれる」消極的な権利として描き出してしまう。しかし、実際に中絶権に関わるのは女性である。国家に中絶を「放っておかれる」だけで、安全な中絶施設が利用可能な状態にないのであれば、女性は依然として望まぬ妊娠の可能性に怯え続けなければならないだろう。したがって、中絶権の要求事項には国家の干渉排除だけではなく、安全な中絶のための積極的な制度作りも含まれる。それが、個体化のミニマルな条件を保護するということなのである。

 中絶権をプライバシー権として構成することの無理は、ロウ判決自体の中にも見てとれる。ロウ判決では、女性は原則的にプライバシー権として中絶権を持つのであるが、女性が妊娠という状態においてプライバシーの中に一人でいると考えるのは難しいので、胎児が母体外で生存可能になった時点で州は潜在的な生命の保護に対する利益を持つのであり、それ故に中絶権は絶対ではないと結論されている。こうして、潜在的生命の保護のために、州が「情報提供」という形で、中絶を考える女性に対し、ビデオを見せるなどの「指導」を行うことが可能になる。しかし、これは、中絶をするかしないかという道徳判断を担うことのできる主体として女性を認めないということである。裏返せば、オン・ディマンドの絶対的な中絶権を認めることは、道徳判断の主体として認めるという象徴的効果を持ち、国家による女性像と家父長制的ジェンダー・ヒエラルキーの変革につながる。

 絶対的な中絶権を認めるということは、生命の神聖さを軽視することと同じだろうか? そうではない。生命の創造には人為的な努力だけでなく自然の力も関わっている。後者に宗教的次元が宿ることもあるだろう。だが、そうした考慮事項のウエイティングをするのはあくまで女性自身であるべきだとコーネルは主張する。重く、辛い中絶の決断において、保守派が想像するような悪魔のように冷徹な女性など存在しない。そのような他者のファンタジーを押し付けるのではなく、女性自身が自分の中絶という決断の意味付けを行うことができるようにすること。これこそが、イマジナリーな領域を保護し、女性がまとまりを持った存在として自己をイメージすることを可能にするのである。

参考文献

ドゥルシラ・コーネル『イマジナリーな領域:中絶、ポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメント』、仲正正樹監訳、2006年、お茶の水書房


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?