「法はどのようにして文学に似ているか」

ロナルド・ドゥオーキン『原理の問題』第6章の要約

裁判官は、係争中の案件について、どのような扱いをすることが法に適っているのかを判断する。しかし、ケースによっては、参照すべき法に適切な扱いが明記されていないことがしばしばある。例えば、アメリカ合衆国はついこの間まで、女性が妊娠中絶を行う権利をプライバシー権によって正当化していた。しかし、当然のことながら、プライバシー権に関する憲法の条項に妊娠中絶に関する記述はない。このようなケースで、裁判官は一体何をしているのか? 法を解釈しているのである。では、どのような仕方でか? 法哲学者ロナルド・ドゥオーキンの回答は、興味深いことに、「文学を解釈するように」である。
 
法解釈を文学の解釈との類比で捉える以上、まずは文学の解釈とは何かが問われる必要がある。ドゥオーキンによれば、文学作品の解釈とは、「ある作品をどのように読めばそれを最高の芸術作品として示すことになるのかを述べようとすること」である。解釈者が何を芸術の要件とするかによって、こうした解釈には様々なスタイルが存在し得る。社会状況を反映した作品を芸術とする人はイデオロギー批評を行うだろうし、文章の美しさを芸術と考える人は、もっぱら記述のテクニカルな側面に着目するだろう。
 
ここで考えたいのは、作品の価値や意義を第一に作者の意図に結び付けるが故に、作者の意図を汲み取ることこそが、解釈の最も重要な実践であるという主張である。確かに一見、この主張は直観に適っている。しかし、意図論者は、次のようなケースを適切に説明できない。すなわち、作者が作品の草稿を読み返すことで、創作の途中では意図していなかった何かを作品中に発見し、内容を修正するケースである。これに関する意図論者の説明は、作者に無意識の意図を想定するか、意図の修正があったと述べるかだが、いずれももっともらしくない。この場合、「作者が作品に直面し、それを解釈したから」と言った方がより適切である。意図論者は、作品に向けられた意図と、作品についての信念の区別に失敗しているのである。
 
整理しよう。文学作品の解釈とは、作者の意図の推測に専心することではなく、芸術についての自己の見解に基づき、ある作品を芸術として読むのに最適な仕方を提示することである。では、これを法解釈に適用するとどうなるのか。ドゥオーキンは、解釈を伴う法実践を、連鎖小説という文学実践に喩える。これは、複数人で統一された小説を書くという作業であり、書き手は、前任者が書いた章を熟読した上で、担当分の章を執筆する。作者は、解釈と創造という二重の任務を負う。作者は複数存在するため、解釈のために決定的とみなされるような特定個人の意図は存在しない。裁判官もまた、前任者たちの書いた判決を通読するが、それは特定個人の判決時における心理状態を発見するためではなくて、彼らが集合的に行ったことに関して何かしらの見解を得るためにそうするのである。そして、最善の解釈をするために文学者が、芸術とは何かという見解に依拠するように、裁判官は、正義とは何かという実質的な政治理論を基礎にするのである。
 
ここで再び、意図論者が登場する。裁判官が個人的に抱く政治的見解に基づいて判決を下すことは、イデオロギーに基づいた好き勝手な法創造ではないのか。裁判官たるもの、法の起草者の意図に忠実であるべきではないのか、と。しかし、立法者の意図は、小説の作者の意図と同じくらい複雑である。例えば、憲法の起草に関わる人が、「人々の基本的利益に関する人種に関わらない平等の条項」を支持すると同時に、「教育は基本的利益に該当しない」と考えているので、学校の人種的区分の存続をも意図しているとしよう。この場合、どちらの意図を正典的なものとして採用するかは、意図とは何かをいくら考えてみても決定できないのである。
 
以上の議論が正しければ、法解釈においてリベラル・ラディカル・保守が対立するのは当然である。保守派は、意図理論に基づいて、リベラルを勝手な創造者として非難するが、これは、彼らの政治的意図を隠すための悪口でしかないのだ。

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