真理の勇気

『ミシェル・フーコー講義集成 13 真理の勇気: コレージュ・ド・フランス講義1983-1984』の要約

古代世界にはパレーシア(率直な語り)という実践があった。それは、話し相手との関係悪化を恐れることなく真理を語ることである。フーコー曰く、元々は議会などでポリスのために行うものだったが、徐々に個人の生き方を問い直すための語りになっていった。

パレーシアは「生き方」を問題にする。それは、倫理的であると同時に美学的でもある関心の対象としての生である。パレーシアは、対話者に、「自己への配慮」を要請し、自らの魂にエートスを打ち立て、その生を美的に彫琢するよう求める。お前は本当に自分に配慮しているのか、不必要なものや誤謬に囚われたまま真の生を見失っているんじゃないのか…という具合に。

ここまでは普通の倫理的パレーシアであり、例えば、ソクラテスが都市住民相手にやっていたことである。ところが、キュニコス派が、極端な実践によって、パレーシアをラディカルに変容させてしまう。

古代の哲学者は人生について語り、不必要なものを捨て、倫理的になり、真の生を送るよう要求するが、彼らの考える正しい生き方とは、慣習や規則(ノモス)と合致するものであった。例えば、彼らは、財産は重要ではないとは言いつつも、極貧ではなかったし、近親相姦や人肉食を否定してもいた。有徳な生とは、エレガントであり、また、動物性と対置される人間性を体現している必要があったのである。

キュニコス派は、「財に固執するな」という原則を徹底し、家はおろか、衣服も持たないし、自然(ピュシス)を至上の善として、人間的規則(ノモス)を顧みない動物的な生を送ろうとする(公共の場で食べ、眠り、自慰をするなど)。彼らは、従来の哲学者が想定する真の生を穏健化してきた規則を打ち破り、それを異様なものへと作り変える。

キュニコス派は、「真の生とは(今あるものとは)別の生なのではないか」という問題を提起する。慎みなく、醜くも、己の身体に真理を暴力的に煌めかせる真の生。彼らは、生にとって本当に必要なものだけを備えて街を徘徊し、人々に声をかけ、説得することで、別の生を到来させ、更には、別の世界を実現しようとする。

自らの身体で示す、別の生としての真の生と、その先にある世界の変革。キュニコス派のこのイメージは、その姿形を少しずつ変えながらも、宗教者、革命家、芸術家へと受け継がれていくことになる。



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