「お前、ふざけんなよ」の倫理学
誰かに、何か不当な扱いを受けたとき、我々には二通りの対処方法がある。一つは、周囲の同情的な関心を惹起することである。第三者が私の苦痛を憐んでくれれば、その人が私への加害をやめさせてくれるかもしれない。他方、「お前、ふざけんなよ」と、加害者に自分で抗議するという方法もある。
この二つの方法の違いはなんだろうか。前者では、苦痛の停止にこそ力点が置かれており、それを遂行するのは誰でもよい。苦痛の停止は、それを最も首尾良く実行できる位置に偶々居合わせた人物に委ねられる。この方法の背後にあるのは、苦痛という望ましくない状態の不在(翻って、快という望ましい状態の存在)を目標とする、三人称的な倫理学である。重要なのは、これらの目標の達成であって、「誰が」それを行うかではない。
これに対し、後者では、私を苦しめているところの、他ならぬ「あなたが」、私への加害をやめるべきであることが主張されている。私から「あなた」へ、「あなたから」私へ宛てられる行為の要求は、応答する行為者を眼前の人物に指定するという点で、二人称的である。
今回扱うのは、このような二人称的な要求こそを我々の道徳的生活の核心として捉え、その分析を通して、契約主義的に再解釈されたカント倫理学を打ち立てようとする、スティーヴン・ダーウォルの『二人称的観点の倫理学——道徳・尊敬・責任』である。
非難の言語分析
不当に扱われ、「ふざけんな」と異議を申し立てる時、我々は何を行っているのか。まず第一に、相手の行為が不当であることを告知している。そして、その上で、ふざけていないで「真面目にやれ」と要求している。この場合、真面目にやるということは、私の非難が正当であることを認め、それに基づいて、加害をやめるということである。ということは、加害者の相手を非難する時、私は、真面目にやる能力——つまり、非難の正当性を理解し、それを理由に加害を差し控えるという理性的能力——を相手が持っていると想定している。ここから、いくつかのことが言える。
まず、相手は、私の提示する道理を理解できるのだから、私とあなたの間にはパースペクティヴの共有が想定されている。同じ観点を持つ道徳的共同体の一員だからこそ、私の権利主張に対する理解が期待されるのである。パースペクティヴを共有する限り、私は、同じようなことが逆の立場で起これば、あなたの異議に応答することを約束している。したがって、私にも、あなたにも、このような二人称的要求を正当化する権威の源泉としての尊厳がある。このように、非難には相手に対する敬意が含意されている。ダーウォルは、非難を「反応的態度」として位置づけるストローソンの、以下のような文章を引いている。「報復することは不敬に対して不敬を返すことであるのに対して、誰かに責任を問うことは、不敬に対して尊敬を返すことを敬意を持って要求する。反応的態度は〔その対象を〕道徳的共同体の一員として見なし続ける。」(Strawson, 1968: 93) 違反者を道徳的共同体からパージするわけではない非難は、傷付いた道徳的共同体を立て直そうとする営為なのである。
次に、非難はその概念からして強制ではない。不当さに対する非難が成功するのは、相手が非難の正当性を心から認めた時に限るからである。たとえ、非難に対する承認を、暴力による威嚇などを通して強制したとしても、それはどこまでも外面的なものにとどまるだろう。そうではなく、非難は、相手の理性への「促し」として捉えられなければならない。加害者に対して、「お前の行為は不正であり、お前には、その行為に対する責任があるんだ。分かるだろう?」と呼びかけるわけである。したがって、二人称的要求の対象となる相手は、自由で理性的な存在として想定されねばならない。自らの過ちとそれに対する制裁の正当性を、自己の自由な(強制なき)理性使用によって認める能力こそが、行為に対する責任の引き受けを可能にするのである。
自律の想定
二人称的要求は、宛先人に対し、以上のような、強制なき理性使用の能力という意味での自由だけではなく、「意志の自律」をも想定する。意志の自律とは、欲求の対象に依存することなく自己の意志を規定し、行為する能力のことである。道徳的共同体における普遍的な道理を提示する二人称的要求を承認し、自らの行為の理由とすることは、まさしく欲求ではなく原理に依拠する自律の能力の発揮である。
二人称的理由に基づく行為についてのこのような分析から、ダーウォルは、道徳法則による拘束の意識から自律を確証する『実践理性批判』を評価し、「理性の事実」を示す偽証の例を再解釈する。自己の安全の保証と引き換えに無実の人に関する偽証を命じられた市民氏は、「自分は偽証を拒むべきであり、そうすることができる」という形で、生存の欲求ではなく原理によって自己の意志を規定する「自由」を感じる。ダーウォルの再解釈によれば、市民氏は、「偽証をしないように」と道徳的共同体から要求されているのであり、そして、この要求を受け入れる自律の能力を想定されているのである。
他者との二人称的コミュニケーションを抜きにして、熟慮を一人称的に捉えるならば、本質的に価値ある結果の実現という行為の原則が導かれるのは、自然なことである。例えば、1日を有意義に過ごしたいと思う人が、「友人と談笑することは本質的に価値のあることだから、そうしよう」と考えるだろう。このように、価値ある結果の実現を目指す素朴な一人称的熟慮においては、何が価値ある状態かを見定め、それを生み出すために必要な行為を因果的に推論する必要がある。これは、意欲の対象に依存するという点で他律的であり、世界の状態を考慮するという点で理論理性の使用に似ている。
これに対し、二人称的要求は、世界ではなく原理による制約によって思考する実践理性の使用を可能にする。それは、理論理性では得られない種類の自由の可能性を我々に与える。つまり、二人称というコミュニケーションの形式こそが、自律を可能にするのである。
定言命法の再解釈
二人称的要求は、尊厳に対する相応しい応答の要求なのだから、定言命法は尊厳から出発せねばならない。したがって、あなたや他者の人間性を単なる手段としてではなく同時に目的としても扱うことを求める人間性の定式が第一に来る。そして、人間性に対する然るべき尊重を求め合う理性的存在者たちの結合は、「目的の国」を作り出す。ここから、目的の国の成員であるかのように立法することを求める目的の国の定式が導かれる。そして、(このような仮想の道徳的共同体において流通する)普遍的法則に合致するような格率によってのみ行為せよという、定言命法の普遍性の公式が導出されるのである。ダーウォルは、このように、尊厳に対する尊敬を互いに求め合う共同体を基軸とすることで、カントを契約主義的に再解釈するのである。
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