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マインドセットから紐ほどくいじめと復讐 そこにあること。


マインドセット(P240 )いじめと復讐

拒絶についてもう一度考えたい。
ひとから冷たく拒絶される体験は、恋愛関係に限ったことではない。
学校ではそれが毎日のように起こっている。

(私的には・・・これは学校だけの特別なことではないと考えています。
人が複数集まる状況には必ず起こりえることであると考えています。)

小学校の入るともう、
いじめの標的になる子がでてくる。
本人は悪いことなどしていないのにもかかわらず
嘲笑され、
肉体的・精神的に痛めつけられるのである。
気の弱い性格や、容姿、出身階層、頭の良さ(よくてもわるくても)などが
いじめを誘発する要因になる。
毎日のようにいじめをうけて、悪夢のような目に遭わされた上、
その後何年にもわたって抑うつと怒りに苦しみつづけることもある。

悪いことに
学校側は何も手を打ってくれないことが多い。
教師のみていないところでおこなわれることがほとんどだし、
教師のお気に入りの生徒が加害者であるケースが少なくないからだ。
そのような場合に、
問題児または、不適応児とみなされるのは、
加害者ではなく被害者の方である。

(このことは学校だけの話ではない。
一般社会には多く存在しているし、会社の職場や部署でも現実に起こっている。また地域にさえもあったりする。)

私たちの社会は
いじめの問題をずっとなおざりにしてきた。
それが近年頻発している学校銃撃事件の引き金になったと言える。
もっとも悪名高いコロンバイン高校の事件で、
銃を乱射した少年は2人とも、長年にわたって残酷ないじめをうけてきた生徒だった。一緒にいじめられていたひとりが、高校で味わった屈辱的な体験の数々を語っている。
廊下のロッカーに閉じ込められては、ののしり言葉を浴びせられる。
他の生徒たちは皆、それを見てせせら笑っているだけ。
ランチの時間には、ランチトレイを床に叩き落されたり、
わざと転ばされたり、食べ物を投げつけられたり、
食べている最中に背後からいきなり顔をテーブルに押し付けられたり。
体育の時間の前には、障子のいないロッカールームでさんざんなぐりつけられたりもした。


いじめは、人に優劣をつけるこちからはじまる。
どっちがえらいか、どっちが上か。
そして強い方が弱い方を、くだらない人間だと決めつけ、
毎日のように嫌がらせを加える。
いじめ加害者がそこから得ているものは自尊心の高揚感だ。

加害者は特に自尊心が低いというわけではないが、他人を見下し、
卑し芽瑠めることよって、自尊心の高揚感を味わうことができる。
また、だれかをいじめることによって、仲間うちでの地位が上がる場合もある。
仲間から一目置かれたり、強い、かっこいい、面白いという評価を受けたり、あるいは、仲間から恐れられる存在になったり。
いずれにしても、それによって仲間内での地位が上昇するのである。

人をいじめる行為は、
硬直マインドセットと大いに関係がある。
いじめの根っこにあるのは、人間には優れたものと劣ったものという考え方なのだ。
いじめの加害者は、劣った人間だと評価した相手をいじめの標的にする。
コロンバイン高校で銃を乱射した生徒のひとり、エリック・ハリスは、
恰好のいじめの標的にされていた。
胸部に奇形があり、背が低くて、パソコンオタク、しかもコロラドの出身ではないよそ者だったから、いじめても構わない劣った人という評価が下されたのである。



いじめ被害者と報復

いじめを受けたものが、それにどう反応するかということにも
硬直マインドセットが関係してくる。
いじめを自分に対する評価だと感じると
人は自分を卑下したくなる。
人に見下されて
自分の価値が否定された人は、
今度は自分が相手を見下してやりたいと思うようになる。

私たちの研究では、
ごく普通のひとたちがーこども、大人を問わずー冷たい仕打ちを受けたことに対して激しい復讐心を抱いていることが分かった。

高学歴で、重要な職務に就いている大人たちが、拒絶や裏切りの体験を語った後、「あのひとを殺してやりたい」「あんな女、絞め殺すのは、簡単さ」といったような言葉を口にした。

校内暴力というと、
ひどい家庭の無責任な親に育てられた悪い子だけのことのようにおもいがちである。けれども驚くなかれ、ごく普通の子供でもマインドセットが硬直していると、
たちまち激しい復讐心を抱くようにある。
ある学校の中学2年生たちに、次のいじめの話を読んでもらい、
それが自分の身に起こった場合を想像してもらった。


  新学期が銃長に滑り出したと思っていると、突然、人気者の生徒たち数人が、あなたをからかったり、ののしったりするようになった。最初は、そんなこともあるさとやりすごしていた、でもいつまでたってもいじめはやまない。毎日付きまとわれてはバカにされ、服装や容姿をからかわれ、ダメな靖と罵倒される。みんなの前で、来る日も、


その後、
「あなただったら、どう思った??どうします。どうしたいですか」と尋ねた。

まず
硬直マインドセットの生徒たちは、
いじめを自分に対する評価と受けとめ
「自分を虫けらみたいな嫌われ者と思うかな」
「自分はさえない不適格者だと思うかな」と答えた。
さらに
「いじめた相手への怒りを爆発させる」
「顔面をぶん殴ってやる」
「相手にもおなじことをやってやる」など
激しい復讐心を示した。
そして一番の目標は復讐することだという主張に強く賛成した。
自分を見下したやつを、今度は自分が見下してやるーコロンバイン高校の襲撃者、エリック・ハリスとディラン・クレボルドのしたことは、まさにこれだった。かれらは長い時間をかけて、誰をを殺し、だれを活かしておくかを決めていったのである。

私たちの研究によると、
しなやかマインドセットの生徒たちは、いじめを自分に対する評価と受けとめるよりもむしろ、
いじめる側の心の問題としてとらえる傾向があった。
仲間に認めてもらうため、あるいは、自尊心を満たすためにそんなことをするのだ、と「私をいじめるのはたぶん、家庭に悩み事があるか、学校の成績のことで悩んでいるかだと思う」「ぼくをいじめて気分をはらすなんて、もうやめたらいいのに」

また、相手が諭してみようとする生徒が多かった。
「こころを開いて話してみる。なんで、私にそんなことをいうのか、なんで、わたしにそんなことをするのかを聞いてみる」
「相手と向き合って話しあい、そんなことをしてもちっとも楽しくないことに気づいてもらう」
そしてしなやかマインドセットの生徒たちは
「最終的には相手を許せたらいいと思う」
「いちばんの目標は、相手がこころを改めてくれるように手助けすることだ」という主張に強く賛成した。

札つきのいじめっとを諭したり、改心させたりといったことが、
はたしてできるかどうかはわからない。
でも仕返しをすることに比べたら、建設的な一歩であることはたしかだ。

もともとはマインドセットがしなやかな子供でも
長いこといじめを受けているうちに、
だんだんマインドセットが硬直してくことがある。
特に、
周囲のひとびとが見て見ぬふりをしたり、いじめに加担したりした場合には、なおさらそうなりやすい。

ひとから愚弄され、侮辱されているのに誰も助けに来てくれないと、
自分は本当にそういう人間なのだと思うようになる、と被験者たちは言う。
自分で自分を劣った人間というレッテルを貼り、
それを信じるようになってしまうのである。

いじめる側は、相手が劣った人間だと決めつけ、
いじめられた側はそれを信じこむ。
こうして、いじめ被害者の心に残った傷が、ある場合には、
被害者を抑うつや自殺に向かわせて、あるいは暴力にかりたてる。


次回何ができるか???より



ここまでお読みになっていただきどんなことを感じてどんなことをおもったでしょうか。今回は割愛せずに紹介させていただきました。

いじめという行為は・・・子供たちの世界だけではありません。
社会の中に普通に存在している行為です。

さて私はあまり好きではないことの一つに二元論のような解釈があります。
昔流行した本にもありましたよね。
ベストセラーになったロバートキヨサキさんの著書「お金持ちお父さん、貧乏お父さん」
私もお世話になりましたが、まったく私には笑・・・・。

私たちの思考にはこの多くの二元論的な要素が影響を与えています。
二元論の良い部分は差異を比べられることにありますが・・・
どうも私たちはどこかで‥評価というラベリングをして
上記にも書いてあるように力関係を表し優越を得たいと望む傾向があったりします。そこには自尊心や優越感やはたまた‥自分の存在価値は別物であるかのように他人にしらしめるかのように・・・。

けれども・・・・
これらのすべてが、私たちの人間の間で起こっていることです。

さて社会や私たちが
私がすこしでも私の周りだけでも過ごしやすい環境を望むのであれば・・・
そこには人間と人間の間には
お互いに大切に大事にしあえる場や間がそこに与えらえなければ成立しません。
上記のことをマインドセットだけで考えることはとても難しいことだと
私は読みながら思いました。また事例として高校生の銃襲撃事件の加害者が実は被害者であることの紹介されていました。このような状況に至る前に
私たち大人が何かできることはなかったのでしょうか??もしくは・・
社会システムや同期の子供たちで・・・何かできることはないのでしょうか???
次回はそのあたりことが書かれています。

その前にゆっくりと上記を読んで考えてみていただければと思います。
上記のことは私として、だれもが陥りやすい状況でだれもがどちら側にもなりやすいことだと思っています。
当たり前とか自分だけよければというような考えが社会に広がっていったとき‥私たちは大きなものを失って後になって気づくことになってしまうかもしれません。

だれがだれいちゃんがというよりも
このいじめの関係・・・・どちらの側のこころを満たす何かがこれらの関係の代わりにあるとしたら・・・・どんなことなのでしょうか???

さて最後に
私的には・・・いじめという関係は・・・いじめという関係に似たようなことはいっぱい社会に存在しています。
バブチンの人間にとって無反応(応答がない)ほどひどいことはないを思い出しながら・・・。




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