翻訳校閲者は必要か ~山岡洋一著『翻訳とは何か 職業としての翻訳』感想
翻訳者から嫌われる存在に、翻訳校閲者(またはチェッカー。以下「校閲者」)がある。わたしは一から翻訳をするのは英語教材のみで、出版翻訳も産業翻訳も、校閲者として入っている。他人の翻訳に手を入れたり、気になる箇所を指摘するのが仕事だが、「なぜ勝手に変えたんだ」とクレームを受けたことはない。
その理由を考えてみる。まず、翻訳者と校閲者は違うポジションである。訳文を生み出すのは翻訳者の役割であり、それに指摘を入れるのが校閲者の役割。それだけのことである。自分の職務を遂行するだけで、自分が翻訳者より上であるとももちろん、下にいるとも思ったことはない。コメントのちょっとしたニュアンスが「上から目線で指摘してくるなんて、この校閲者は自分を何様だと思っているのだ」と翻訳者を怒らせることはもちろん知っている。よってコメントを書くときは入念な注意を払う。自分を卑下したり謙遜したりすることもない。対等の立場としてニュートラルに書いているし、その姿勢は翻訳者にも必ず伝わっていると思っている。
さらに原稿をWord等のデータでもらう場合は、「変更履歴を入れたファイルを翻訳者に戻す」のは当然だが、初めて組む相手には、変更理由をすべてコメントで説明している。何度も組んできた翻訳者であっても、ポイントの箇所には必ずコメントを入れておく。そしてこちらの書いたコメントを採用するかどうかは訳文を作る翻訳者が決めることであり、一切口を出さない。実のところ、わたしの場合は自分の手を離れた文章には興味がないということもある。
さて本書では「日本語を書く技術こそが、翻訳の技術の根幹なのだ(p141)」と述べられている。「日本語を書く技術が高ければ、原文の読解を間違えて訳した部分があっても、『どうも奇妙だ』とか『理解できない』という印象になり、その部分を再検討する(p142)」ことになるからだという。p143から1段落、具体例を引用しよう。
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たとえば、periodicallyという副詞がある。たいていの辞書には-ly advとしか書かれていない。せいぜい、「定期的に」などの訳語があるのみだ。だが、この訳語を使って翻訳すると、「この交差点では定期的に事故が起こる」とか「新発売のパソコン用ソフトウェアを試したら定期的にクラッシュが起こった」とかの訳文ができあがる。事故や故障が「定期的に」起こるのは危険だと感じれば、この語の用例を調べてみようと思うようになる。調べていけば、じつは「不定期ではあるがかなり頻繁に」という意味で使われることに気づくはずだ。
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ここが翻訳の根幹である。だが、「この交差点では定期的に事故が起こる」という訳文をつい書いてしまい、セルフチェックでその不自然さを感じ取れない場合はどうしたらよいのか。翻訳者の腕だけの問題ではない。どんなに上手い翻訳だって、ひとりで訳し上げただけでは、第三者が読んで1か所も違和感を覚えないなんてことはありえない。
自分以外が書いた訳文のアラや間違いはだれしも発見できるものだ。つまり、「違う目」が入ることが重要なのである。その技能に特化したプロが校閲者である。
だれしもミスをする。誤訳をしたことのない翻訳者はいない。だから校閲者というポジションは翻訳プロセスに必須の存在である。そして、翻訳者は校閲者を疎んじてほしくない。校閲者が何かを指摘するというのは、スキルが高いわけでもなんでもなくて、そういうプロセス、そういう仕事だというのにすぎない。翻訳者とは「仕事が違う」だけなのである。
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