翻訳すること、翻訳されること~『村上春樹 雑文集』から得た知見
村上春樹のエッセイからスピーチ、超短編小説などの作品から成る『雑文集』は、いくつかのジャンルごとに分けて編纂されている。
そのなかのひとつに「翻訳すること、翻訳されること」がある。村上作品は世界50か国以上で翻訳されているのに加え、村上本人が翻訳者でもあるので、両面からのエッセイがあるのだ。
まずは翻訳される側からのエッセイをみていこう。原著者として、自ら書いた小説が翻訳されたものを読み、どう感じているのだろう。
(小説の)翻訳としての義務を果たす訳文とは
村上によると、翻訳は「すらすらとよどみなく読めて、楽しめ」るのであれば義務を果たしているという。
では「すぐれた翻訳」とはなんだろう。それについての答えではないけれど、「すぐれた翻訳」に必要なものについては、翻訳者としての立場から語っている。
村上は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など、古典の定番訳がある作品を新訳している。翻訳業界に身を置く者として、ぜひ知りたい。
すぐれた翻訳には何が必要か
「個人的な偏見に満ちた愛」は、原著への思い入れであるとわたしは解釈した。
すぐれた翻訳は、原著への思い入れで決まる。どこまで読み込めるか、そしてそれをどこまで練って表現できるか。翻訳の質はそこで決まるとずっと思ってきたけれど、それを「個人的な偏見に満ちた愛」と表現するのが村上である。
ひとつの原著に複数の翻訳が存在するのは是か非か
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『ロング・グッドバイ』はすでに確立された古典訳が存在しているが、村上はあえて新訳を出した。とりわけ『キャッチャー・イン・ザ・ライ』については、自分で翻訳したいと言い続けていたら出版社が話をもってきたというくらい、思い入れがある。
だが、中高年世代にとっては野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』、清水俊二訳の『長いお別れ』は定番、言ってみれば「刷り込み」として機能している。
その人たちにとって村上の新訳は「聖域侵犯」であると感じられたのか、相当の批判を受けたらしい。それに対する回答として、村上はこう述べている。
つまり、翻訳は「技術的な対応のひとつのかたちに過ぎない」のだから、いくつもの訳があってしかるべき。いろいろな翻訳を読むことで、読者はオリジナル・テキストを味わえるというのが村上の主張である。
わたしも同意見だ。いろいろな訳者の翻訳書があってよい。原著の熱心な読者ならば、翻訳をすべて読むことで原著の味わいがわかってくるとも思う。
英語がある程度読めるなら、原著を求めたうえで複数の翻訳を見て、「ここがこう訳されているのか」と比較してもよい。出版翻訳者を目指す人たちはこうやって勉強しているようだが、「勉強」ではなく、ひとつの楽しみ方としてのエンタメジャンルになると思う。
小説家であり翻訳家であるとは
さて、小説も書けば翻訳もする村上は、両刀使いということはどう考えているのだろうか。
良い文章がなぜ良いのか、どこが良いのかが分かってくるというのは、多くの翻訳者が語っている。原著を舐めるように読み、味わい尽くさないと翻訳はできない。だから、原著のテキストについていちばんよく分かっているのは著者本人よりも翻訳者であるとすら言われている。
そうやって読むと、名作であればあるほど、「どこが良いのか」「どこが素晴らしいのか」が分かってくる。それはそうだと思う。これが翻訳者のいわば「特権」だろう。校閲者も舐めるように読むが、「どこが素晴らしいか」を味わうのとはちょっと違う読み方をしていると思う。
村上は、小説と翻訳を両方手掛けることで脳のバランスがとれるし、翻訳作業をすると文章について学べるため、「翻訳をすることで小説もうまくなる」と述べている。双方向にプラスの視点が働いているという。さらに、まだまだ伸びしろが残されていると本人が語っている。ファンにとっては嬉しいことである。
わたしは村上の小説をこれから読んでいこうというところだが、年代順に、こういう意味での「進歩」を追いかけていったら、おもしろい読み方ができそうだ。そういう論文があったらぜひ読みたい。
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