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翻訳すること、翻訳されること~『村上春樹 雑文集』から得た知見

 村上春樹のエッセイからスピーチ、超短編小説などの作品から成る『雑文集』は、いくつかのジャンルごとに分けて編纂されている。
 そのなかのひとつに「翻訳すること、翻訳されること」がある。村上作品は世界50か国以上で翻訳されているのに加え、村上本人が翻訳者でもあるので、両面からのエッセイがあるのだ。
 まずは翻訳される側からのエッセイをみていこう。原著者として、自ら書いた小説が翻訳されたものを読み、どう感じているのだろう。

(小説の)翻訳としての義務を果たす訳文とは

僕の小説が、書き上げた何年かののちに外国語に翻訳されて出版されるころには、その本のなかで自分がいったい何を書いたのか、うまく思い出せなくなっていることが多い。

 僕は英語で翻訳された自分の小説は、一応ぱらぱらと読んでみるのですが、読み出すとけっこうおもしろくて(というのは自分で筋を忘れてしまっているから)、わくわくしたり笑ったりしながら、最後までずっと読み終えてしまったりする。
 すらすらとよどみなく読めて、それで楽しめたのなら、その翻訳は翻訳としての義務を十全に果たしていることになるだろう――というのが僕の原著者としての基本的なスタンスです。

本書281ページより

 村上によると、翻訳は「すらすらとよどみなく読めて、楽しめ」るのであれば義務を果たしているという。
 では「すぐれた翻訳」とはなんだろう。それについての答えではないけれど、「すぐれた翻訳」に必要なものについては、翻訳者としての立場から語っている。
 村上は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など、古典の定番訳がある作品を新訳している。翻訳業界に身を置く者として、ぜひ知りたい。

すぐれた翻訳には何が必要か

僕自身、翻訳の仕事(英語→日本語)を結構長くやっているので、翻訳というものがどれほど大変な作業であり、またどれほど楽しい作業であるかということが、それなりにわかっています。
 すぐれた翻訳にいちばん必要とされるものは言うまでもなく語学力だけれど、それに劣らず――とりわけフィクションの場合――必要なのは個人的な偏見に満ちた愛ではないかと思う 

本書284ページより

 「個人的な偏見に満ちた愛」は、原著への思い入れであるとわたしは解釈した。
 すぐれた翻訳は、原著への思い入れで決まる。どこまで読み込めるか、そしてそれをどこまで練って表現できるか。翻訳の質はそこで決まるとずっと思ってきたけれど、それを「個人的な偏見に満ちた愛」と表現するのが村上である。

ひとつの原著に複数の翻訳が存在するのは是か非か

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『ロング・グッドバイ』はすでに確立された古典訳が存在しているが、村上はあえて新訳を出した。とりわけ『キャッチャー・イン・ザ・ライ』については、自分で翻訳したいと言い続けていたら出版社が話をもってきたというくらい、思い入れがある。
 だが、中高年世代にとっては野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』、清水俊二訳の『長いお別れ』は定番、言ってみれば「刷り込み」として機能している。
 その人たちにとって村上の新訳は「聖域侵犯」であると感じられたのか、相当の批判を受けたらしい。それに対する回答として、村上はこう述べている。

翻訳というのは創作作業ではなく、技術的な対応のひとつのかたちに過ぎないわけだから、様々な異なったかたちのアプローチが並列的に存在して当然である。
少なくとも古典と呼ばれるような作品には、いくつかのalternativeが必要とされるはずだ。質の高いいくつかの選択肢が存在し、複数のアスペクトの集積を通して、オリジナル・テキストのあるべき姿が自然に浮かび上がっていくというのが、翻訳の最も望ましい形ではあるまいか。

本書283ページより

 つまり、翻訳は「技術的な対応のひとつのかたちに過ぎない」のだから、いくつもの訳があってしかるべき。いろいろな翻訳を読むことで、読者はオリジナル・テキストを味わえるというのが村上の主張である。
 わたしも同意見だ。いろいろな訳者の翻訳書があってよい。原著の熱心な読者ならば、翻訳をすべて読むことで原著の味わいがわかってくるとも思う。
 英語がある程度読めるなら、原著を求めたうえで複数の翻訳を見て、「ここがこう訳されているのか」と比較してもよい。出版翻訳者を目指す人たちはこうやって勉強しているようだが、「勉強」ではなく、ひとつの楽しみ方としてのエンタメジャンルになると思う。

小説家であり翻訳家であるとは

さて、小説も書けば翻訳もする村上は、両刀使いということはどう考えているのだろうか。

(翻訳が小説書きに役立っていることとして)小説を書くのと翻訳をするのとでは、使用する頭の部位が違うので、交互にやっていると脳のバランスがうまくとれてくるということもある。もうひとつは、翻訳作業を通して文章について多くを学べることだ。外国語で(僕の場合は英語で)書かれたある作品を読んで「素晴らしい」と思う。そしてその作品を翻訳してみる。するとその文章のどこがそんなに素晴らしかったのかという仕組みのようなものが、より明確に見えてくる。実際に手を動かして、ひとつの言語から別の言語に移し替えていると、その文章をただ目で読んでいるときより、見えてくるものが遥かに多くなり、また立体的になってくる。そしてそういう作業を長年にわたって続けていると、「良い文章がなぜ良いのか」という原理のような物が自然に分かってくる。

本書369ページ

 良い文章がなぜ良いのか、どこが良いのかが分かってくるというのは、多くの翻訳者が語っている。原著を舐めるように読み、味わい尽くさないと翻訳はできない。だから、原著のテキストについていちばんよく分かっているのは著者本人よりも翻訳者であるとすら言われている。
 そうやって読むと、名作であればあるほど、「どこが良いのか」「どこが素晴らしいのか」が分かってくる。それはそうだと思う。これが翻訳者のいわば「特権」だろう。校閲者も舐めるように読むが、「どこが素晴らしいか」を味わうのとはちょっと違う読み方をしていると思う。

僕がつくづく思ったのは「世の中にはきっと翻訳の神様がいるんだ」ということだった。志賀直哉に「小僧の神様」という作品があるが、それと同じような意味合いでの個人的な神様だ。僕は自分の好きな作品を選び、僕なりに心を込めて、ひとつひとつ大事に翻訳をしてきた。まだまだ不足はあるにせよ、少しずつではあるが翻訳の腕もあがっていると思う。翻訳の神様は空の上でそれをじっとご覧になっていて、「村上もなかなかよくがんばって翻訳をしておる。この辺で少し褒美をやらなくてはな」と思われたのかもしれない。
 翻訳の神様を裏切らないためにも、これからもがんばって優れた翻訳をしなくてはなと日々自戒している。まだ先は長いし、翻訳したい作品もたくさん残っている。そしてそれは、小説家としての僕にとってもまだまだ成長する余地が残されている、ということでもあるのだ。 

本書371ページより

 村上は、小説と翻訳を両方手掛けることで脳のバランスがとれるし、翻訳作業をすると文章について学べるため、「翻訳をすることで小説もうまくなる」と述べている。双方向にプラスの視点が働いているという。さらに、まだまだ伸びしろが残されていると本人が語っている。ファンにとっては嬉しいことである。
 わたしは村上の小説をこれから読んでいこうというところだが、年代順に、こういう意味での「進歩」を追いかけていったら、おもしろい読み方ができそうだ。そういう論文があったらぜひ読みたい。

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