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齋藤孝『語彙力こそが教養である』感想

 語彙について、教授の名言がどんどん飛び出してくる。ちょっと拾っただけでも次のとおりだ。

引用は教養のアウトプットであり、インプットした語彙の出口である。

「耳で聞いた単語を反射的に漢字変換できるかどうか」が自分の語彙力を測るひとつのポイント

(自分の)語彙力チェックをして自分が頼りがちな語彙を見つける。そしてその語句をNGワードにすると語彙が広がる

「定着のためのアウトプット」と「実践で使うアウトプット」。5回アウトプットすると(その語彙が)自分のものになる。

 どれもこれも「言われてみればそうだよなぁ」ということばかり。
ところでわたしは、今年のテーマのひとつが美術検定2級取得である。美術とあまり縁のない人生を送ってきたので、まったく詳しくない。けれどもどうしても達成したい目標だ。この答えも本書にあった。

新しく学習したいことがあったら

専門的な文章を読むときは、何よりもまず、専門用語をインプットする。短期集中、2週間が基本。優先順位の高い用語から繰り返し目を通し、言葉に慣れる。

 知らない分野を学習するときには語彙からインプットせよというのは、ほかの本でも読んだことがある。基本中の基本ということだ。わたしの目標で言えば、美術史に出てくる語と画家、作品名をまずインプットする。これを短期集中しなければならないという。教授は「同時並行で、その分野に詳しい人と会話を重ねる」と続けているが、残念ながら美術に詳しい友人がわたしにはいない。だが、4月に放送大学で美術史の面接授業が入る。2日間だががっつり集中した講義なので、まず語彙をインプットしておいて放送大学の講義を受けたらちょうどよいかもしれない。
 また教授は、講師業もしているわたしにとっておそろしい言葉を書いている。

全力を尽くすのは当然

新学期の始まる4月。初回の授業には、いつも「すべてをぶつけてやろう」というつもりで臨む。初回の授業90分にすべてを賭け、エネルギーを爆発させる。通年の授業であれば、それからの30回弱の授業のなかで伝えることを要約し、言葉を選び、もっとも面白い形に組み立て直してすべてぶつける。授業は試合だから全力を尽くすのは当然。

 齋藤教授でさえそうなのか……。わたしのように話が下手と自覚している者は、スライド作成やパフォーマンス練習を重ねて全力を尽くすのは当然だったのだなぁ。自分を過大評価してしまうわたしは、「ここまでパフォーマンス練習している講師は自分だけ」だと思っていた(しゃべるのが上手い人は、練習しなくてもできるからその必要はない)。だが、そんなことはないのだ。上手いと思われている人ほど必死で練習しているのか。次に講師をするときも、やっぱり全力投球で準備し、パフォーマンスも毎日練習しなければね。
 最後に、ちょっとおそろしい箇所を引用しよう。

言葉が思考に表れる

どのような言い回しを用いるかには、その人の思考がそのまま表れる。思考が浅い人は浅い言葉しか使えませんし、いじわるな人は、言葉からそのいじわるさがにじみ出てしまう。

 常々思っていたとおりである。自分に当てはめると、わたしは底意地が悪い。自分で知っているからなおのこと、悪い語彙はインプットしないように、見ようとした瞬間に離れるよう心がけている。インプットした悪い語彙を、いつかどこかで使ってしまうかもしれないと懸念するからである。性格は変えられないが、わたしは言葉が商売なので、意地の悪さが言葉に出ないよう、最大限の努力をしているわけだ。これは今後も、たぶん一生続けていかねばならない心構えだ。

自分へのエール、そして戒めとして

 この本は、いや齋藤教授の本はどれもエネルギーにあふれていて、やる気を目一杯チャージしてくれるのだが、いま、ある勝負の途中である自分にぴったりの言葉があった。

(徒然草にあるとおり)勝負ごとをするとき、相手に勝とう、勝ってやると躍起になるのではなく、「負けないように」ゲームを進めていくことが勝利への条件。

  徒然草は読んだつもりになっていたが、肝心の百十段は抜け落ちていた。勝とうとするのではなく、「負けないように」ゲームを進める。すぐに熱くなり、勝てない相手なのに「勝とう、勝ってやる」と思ってしまうのが自分だが、それでは勝てるわけがない。「負けないように」ゲームを進める。それを毎日肝に銘じてやっていくことにしよう。

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