友人の訳書を読んだ。昔から日本語ライティングには定評ある人だったし、これまで着実にキャリアを重ねてきただけあって、上手い。話題作にも抜擢され、よくここまで質の高い訳を出してきたと、こちらまで誇らしく思う。
 だが書名は書かない。わたしはこの本を買っていないのだ。
 発行を知って、最寄りの図書館に購入をリクエストしてから1か月。「リクエストした本が届いているので取りにきてください」とメールを受け取った。
 市立図書館が買ってくれたのだ。自分でお金を出して買ったわけではない。つまり、お金を出したのは市であって、自分ではない。
 本は自分で、それもできればリアル書店で買ってこそ、という考えがある。それが著者や翻訳者に対する還元でもあり尊敬でもあると。
 もちろんそのとおり。出版業界の片隅に生息する身として、これが王道であることに異を唱えるわけはない。
 しかし、買わなければその本のことをおおっぴらに言ってはいけないのか。わたしはそうは思わない。
 フィールドは非常に狭いが、わたしは校閲・翻訳校閲・執筆と3つの立場で本に携わっている。フリーランスになってから8年間のキャリアで、携わった本が70冊ほど、その8割が英語教材と学習書である。
 著作権を有する本もあれば、ブックライターとして書いた本、校正/校閲を担当した本、編集で9割実作業を担当したがクレジットが入っていない本など、本との「関係」はさまざまである。
 だからこそだが、自分が携わった本を「買ったらあなたの名前が入っていたのでびっくり」と言われたらもちろんだが、「書店で見た」「ちらっと読んだ」話を聞くだけでも、飛び上がるほど嬉しい。
 買ってくれたかどうかは二の次で、わたしが何らかの役割を担当した本を目にしたのをこうやって知らせてくれた、さらには手に取ってくれた、ときには数ページであっても読んでくれたとなると、それだけで「報われた……」と思える。
 マイナスの観点であってもamazonレビューに書いてくれたりしたら、天にも昇る心地。無関心よりもどれだけありがたいかわからない。それだけで、1週間くらい幸せな気持ちで仕事ができる。
 その本の担当プロセスでの思いが鮮明に浮かび上がり、ああ、あのときはこんな思いでこの本に携わった。いまこうやって、本を手に取ってくれた人がいるのだ、自分の作業と自分の思いはむだではなかった、価値のあることだったと思える。
 そうではない考えの人のほうが多いだろう。大半の著作権者は、本を買っていない読者には、感想を言うにも「匿名かつ隅っこでそうっと書いてくれ」と思う人もいるだろう。人それぞれなので、そういう人もいて当然。
 ただ、自分はそうではない。著作権のある本でも、クレジットの入った本でも、ノンクレジットの本であっても、amazonレビューを読みにいっては「そうそう、そこをちゃんと読み取るとはなんて素晴らしい読者なんだ!」と小躍りしている。
 どうも今日の調子が上がらないというときには、こうやって自分をやる気にさせるのだ。わたしにとって、本は読むのも書くのも校閲するのも日々の糧。
 今日からはオンライン英語教材の校閲だ。この教材にはクレジットは入らない。でも、この教材を使う高校生を想像することはできるのだ。世間が連休の間が稼ぎ時。さて、やるか。


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