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母に鼻で笑われた時、僕は夢の話をしていた。

うちの家庭は父しかいません。
今は私も一人暮らしをしているので別々で暮らしていますがずっと二人で暮らしていました。

と、言うと「お母さんもしかして…」と思われるかもしれませんが生きています。多分、知らんけど。

文章を見てあからさまに出ているように私は母が嫌いです。離婚する前から好きじゃなかったけど大人になってからは特に嫌いです。

今まであまり書いてこなかった母との話ですが今回は覚えてる出来事を書いていきたいと思います。

別に母を誹謗中傷したいわけでもないしただあった出来事と想った事を書いていくので気楽な気持ちで見ていただけたらと思います。


幼少期の母との関係

母は家庭をないがしろにしていたとまでは言いませんが見栄をかなり気にする性格で金遣いも荒く母親としての面が強いというよりは女性の面が強い人であったとは思います。

それが悪いとは言いませんが子供ながらに悲しく感じる場面も時々あった記憶があります。

でも今思えば僕から見るとこう見えてはいたけど自分の子供が重度の身体障害児。20代の母にとってはもちろん見えない辛さはあっただろうしバランスを取る為に必要だった事ももしかするとあったのかもしれません。

僕が幼い頃は共働きだった両親ですが小学校に入る時には母は専業主婦でした。

今から言うことが仕事を辞めた理由だったかは覚えていません。その前から辞めてたような気もしますがかなり昔のことなのであまり覚えていません。

僕は小学校に入る時すでに気管切開をしていました。気管切開に至る経緯や出来事については以前のnoteに書いてるので良かったら見てください。

小学校に入る時一番壁になったのは1日の中で数回気管からの吸引が必要になる為誰が医療的ケアを出来るのか。

当時自宅ではヘルパーさんや訪問看護さんを利用していたのですが学校では利用できないし普通学校に通っていたので常駐してる看護師さんももちろんいない。

そんなこんなで最終的な方法として決まったのは母親が毎日学校の中の別室で常に待機するといった方法でした。

今自分がかなり大人になってようやく少し思うところではありますが、自分から見てもこの時の母はかなり大変だっただろうなと思います。

別室で待機して特段動き回るわけではないにしろ1日の中でかなりの時間の時間を拘束されるわけですから、いくら自身の子供のためとはいえかなり苦痛だったのではないかなと思います。

ここまでしてくれなかったら僕は学校に行けなかったのでこの時期のことは今でも感謝はしています。

僕も母親の子供ですから幼い頃から合わないとか大嫌いとかはもちろんなかったし完全な溝が生まれたのは中学の離婚の時期くらいかなぁと思っています。

それに至るまで少しずつぶつかったり嫌になる出来事があったり、思春期だった事も大きいとは思います。

全て書くと膨大なので今日は書きませんが
今でも一つだけ脳裏にこびりついてる母との出来事を書きます。

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