「豊かさ」について考えたこと

時間をかけて質の高いものを育てる。 ただそれだけで (それだけ、と言っても、言うは易く行うは難しだが) 人生は確かに根を持ち、豊かなものになるのだと思う。「豊か」というのは、余裕があって味わい深いこと……くらいの意味で、巷では理解されてるだろうか。

それとなんの関係があるんだ、と言われそうだけど、今年は雛人形を作る会社が倒産したのだと、雑貨屋の店主がぼやいていた。
「呉服屋さんとか、これから苦しうなるやろうなあ。物事はだんだんとじゃない、ある日一気に傾くから。私たちの体が、30越えてガクッときて、またある日ガクッとくるのと一緒や」
笑い事ではない話で笑う彼女の声は、少し泣いているように聞こえた。

物事は、ある日一気に傾く。徐々に、ではない。兆候が見えたなら、不吉な事態はもう始まっている。そういう時代に居合わせているのだと感じた。

時間をかけて質の高いものを育てる。一見、無駄に見える文化体験にお金をかける。結果が出ないからと言って焦らない──。
そういう「揺らぎ」「遊び」「余裕」のなさが、人形会社の倒産の裏にはあるんだろう。人々が伝統行事に関心を示さないという事実そのものが、なんだかひしひしと苦しい。

そういう自分だって、雛壇を出してきて飾り付けなんてしないし、鯉のぼりを上げたりはしない。手間暇がかかるし、面倒だから。でも、小さな雛人形を一組、飾ろうとは思っていたのだ。思っていて、思っているうちに、桃の節句が過ぎてしまった。

「人々は」なんて大きな主語を使ったけど、これは私自身のことだ。季節を自分の手で具体化するような──例えばお花見に行くとか、七草粥を作るとか、鯉のぼりを上げるとか──ことをしていないから、日々がただ流れていくだけで、移り行く時節が自分のものにならず、手からさらさらとこぼれていく。そういうことに対する危機感というか、焦りが薄れている。自覚がないまま何かを失っていることが、余計に不気味で空恐ろしい。

「豊かさ」っていうのは、きっと自分の手で世界を掴みに行くことなのだ。与えられたものを安穏と受け流しているだけでは、何一つ、自分のものになった気がしない。ここでの個人的な結論はだから、時間や手間をかけて、何かを自分の手に取り戻すことが、私にとって「豊かさ」の一部だっていうことだ。

日頃「頑張る」という言葉は、ためらいを感じてあまり使わない。でも、今は努力をすべきだと思う。豊かであるために頑張りたい。それが時代に逆行しているのだとしても、だからこそ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。