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ものがたり、補給中

 物語が足りない。そういうときは図書館に行って、小説のコーナーで適当に手に取ったのを借りてくる。好みに合うものもあるし、合わないのもある。今回は、けっこう当たりだったと思う。
 
 一冊目が『世界の果ての子どもたち』。2016年本屋大賞第3位だったらしい。知らなかった。 

本屋大賞で記憶に残っているものと言えば、恩田陸の『夜のピクニック』で、当時読んですごくおもしろかった記憶がある。恩田作品を読み始めたのはそこから。特に男子高校生四人の寮生活を書いた『ネバーランド』が好きだった。

 戦時中の日本と中国を舞台にしている。描写が逐一リアルだ。実際、戦争中はそういうことがあっただろうと思う。
 
 キャラメルを貰った子どもの手からそれを奪い、自分の子どもに手渡すおばさん。軍人が、相手が妊婦であろうがおおっぴらに暴行し、傍若無人に振舞うこと。子どもたちが使う「朝鮮人」という揶揄。日本名と中国名の、2つの名前を持つ人……。
 
 どんな殺伐とした時代にも、人々の交流はある。優しい人がいて、権威を笠に着て暴力を行なう人がいて、家族が大事で……そしてときには、その家族を恥ずかしいと思ってしまう。
 
 読んでいると「今はいい時代だな」と思う。おしゃれをしても非国民とは呼ばれないし、毛沢東語録や教育勅語を暗記してなくたって、普通に買い物ができて普通に生活していける。政治家に向かって罵詈雑言を投げつけて、牢屋に入れられた人もいない。
 
 作品には中国の革命時代、人々が互いに不信に陥っていく様子が書かれている。昔あいつにああされた、あいつは昔金持ちだった、有能で仕事ができた、なんてことまで批判の対象になり、指差された人は表舞台から連れ去られる。
 ……こればっかは、いまもまったくの無縁ではないな……。誰かの発言や過去の言動を掘り返して引きずり降ろす。そういう風潮は、残念ながら現代でも無縁じゃない。
 
 いまのことはいまのこと。昔のことは昔のこと。そして言動が法律に違反していない限り、法的には問題ないのだ。法に触れるものは公に裁かれるべきであり、一般人が勝手に正義の鉄槌を下すのはありえない。
 この21世紀に、魔女狩りなんてごめんだよ。
 
 
 もう一冊、こちらは第125回芥川賞受賞作。リアルタイムでは絶対読んでない、こういう本に会えるから図書館はいい。『中陰の花』。
 現役のお坊さんが書いたというだけあって、お寺に関わる人の生活ってこんな感じなのね~という、それっぽい言葉がたくさん出てくる。卒塔婆とか、普段使わないなあ。ちなみに「中陰」とは、あの世とこの世のあいだを言うらしい。
 
 本の中で主人公は「人は死んだらどうなるの」という問いにこう答える。

「仏教では、基本的には質料不滅の法則で考えてるんだ」
「質料不滅の法則?」
「そう。たとえばコップの水が蒸発する。そうすると水蒸気はしばらくはこのへんにあるやろ」
 ちょうど鉄瓶から立ちのぼる湯気を、二人は見上げた。
「それが中有とか中陰とか呼ばれる状態」
「チュウウ?」
「つまり、この世とあの世の中間ってこと」

玄侑宗久『中陰の花』文藝春秋、2005年、p.29

 水蒸気はそのあとどんどん広がっていく。コップの中の水は、コップからなくなっただけで、形を変えてどこまでも広がっていく。地球上から消えるものは何もない。亡くなった人もそんな風に、ずっとずっと遠く広がっている。
 
 なんかわかる。自分は天国も地獄も、想像してみることはできるけどそれほど信じてない。それよりは、死んだあとは風に溶けて見えなくなって、でもずっとこの宇宙にあり続けるんだと言われるほうがしっくり来る。そうやって死にたい。そうやって生きていたい。
 
 大学の学部の授業以来だけど、また仏教勉強しようかな。そんな気持ちになる本だった。


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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。