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哲学ノート⑲学問オタクになるな──セネカ

ローマの哲学者セネカは、自分の時間を生きろと説いた。酒や性愛に現を抜かすのも、富や名声を求めるのも、自分と向き合っていない人間の生き方だと。それなら知識を溜め込む趣味はよいのかというと、そういうわけでも無論ない。

役に立たない文学研究に魅せられた人たちが、あくせくしながら実は何もしていない、という事実を疑う者は一人もいないであろう。つまらない事柄を詮索するこの病癖は、元来、ギリシア人のものであった。例えば、ウリクセースは何人の漕手を有していたかとか、『イーリアス』と『オデュッセイア』はどちらが先に書かれたかとか、作者は同一人物かとか、その他、この種の事柄がそれで、秘密として人に教えなければ教えなかったで秘めた心が満足せず、公にすればしたで博学と思われるよりはむしろ鼻持ちならない人間と思われるような類いの些事である。(※1)43-44
その類いの知識が、誰の迷妄を正し、誰の過誤を減らすというのであろう。誰の欲望を抑えるというのであろう。誰をより勇敢な人間にし、誰をより正しい人間にし、誰をより自由な人間にするというのであろう。
私の知己のファビーヌスは、折に触れて、よくこう語っていた、この類いのことにかかずらうくらいなら、およそ学問というものにいっさい携わらないほうがまだしもよいのではないかと思う、と。(※2)47

学問を否定しているわけではなく、学問オタクになってしまう人たちへの戒めだ。そういう人は実際にたくさんいて、古代ローマにも珍しくなかったのだろう。知識が大事なときはあるけれど、そればかりあっても仕方ない。それは例えば、セネカについてこう言うようなものだ。

「彼は『ストア派』であって『ペリパトス派』じゃない。最期には時の皇帝に自決を迫られて死んだ。このときの皇帝はネロであって、マルクス・アウレリウスではない。紀元後65年没、生年は不明」

……そんな知識を並べたところで、セネカに触れたことにはならない。彼がどんな人でどんな思想を持っていたか、そこから一片たりとも伝わってこない。そんな、イエスノーを即座に判断できるようなことはただのクイズだ。学問じゃない。

もちろん知識それ自体は大事だけど、それが〇か×かを決めることばかり、楽しむのは愚かしい。そんなことで鼻持ちならない奴になるくらいなら、学問に近づかないほうがまだいい。ここではそう言われている。

それにしても、ここの言い回しは好きだ。「それが何の役に立つのだ」という味気ない疑問文ではなく、「誰の迷妄を正し、誰の過誤を減らすというのであろう。誰の欲望を抑えるというのであろう。誰をより勇敢な人間にし、誰をより正しい人間にし、誰をより自由な人間にするというのであろう」という、連続する反語。この問い方は好きだ。

だから何かを考えるときは「それが誰をより自由にし、誰の過ちを減らすというのか」と自問したくなる。それは「何の役に立つか」よりも、「誰」と人間に的を絞った、人間的で張り詰めた厳しさのある問いだ。

(続)

※1、2:セネカ『生の短さについて』大西英文訳、岩波文庫、2010
     ページ数は引用箇所に記載。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。