詩が役に立つとしたら

「童話屋」の詩集が好きだ。母に言わせれば、ここの出版社は「お金を儲ける必要のない人が、趣味でやっているようなところ」に見えるらしい。商業主義に走っていない、という点に関してはその通りで、趣味というより、大切に温められた志を感じる。

傑作ばかりを集めた『ポケット詩集』の1と2は、生まれた頃から家にあったもので、まだ漢字に馴染みがない時期に、ルビを頼りに読んでいた。吉野弘の『I was born』も、茨木のり子の『汲む──Y.Y.に』も、この詩集がなければ出会わなかっただろう。どちらも自分にとって思い入れの深い詩だ。それぞれがどんなものか、少しだけ説明すると(詩を切り貼りして紹介するのが野暮なことなのは理解しているけれど)、吉野弘のほうは

I was born. さ、受身形だよ
人は生まれさせられるんだ、
自分の意志ではないんだね──

という、少年の無邪気な発見に表れる「生きる」「生まれる」ことの受動性。
茨木のり子のほうは

大人になるということは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃

で始まる、思春期の頃の「大人」への葛藤と、それを掬い取るような瑞々しさのある表現。そういうものが、知らず知らずのうちに、豊かな言葉の世界への扉を開いてくれた。

詩は役には立たない。詩集を持ち歩いたところで、防犯対策にはならないだろうし、「誰それさんの、この詩を読んだら病気が治りました!」なんてこともないだろう。それで試験の点数が上がるわけでも、素敵なパートナーができるわけでもない(その相手と詩の話で盛り上がれた、とかなら話は別だけど)。言葉は言葉であって、食べ物にはならないし、それで家を建てられるような道具でもない。
ここまで書いて、じゃあどうやって詩を擁護したらいいんだろう、と筆が迷う。

自分に言えるのは、詩が言葉を与えてくれたということだ。例えば「難しい年頃」の真っ只中にいた17歳のとき、私は他の17歳と同じようにヒリヒリしていて、大人になるっていうのは、要は今感じている痛みに鈍感になって、麻酔をかけられたみたいに思考停止して世の中に適応していくことなんじゃないか、と考え、自分を持て余してくすぶっていた。そんなとき、唐突に茨木のり子を思い出した。小さい頃に幾度となく読んだ詩。

大人になるということは、
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃

17歳の自分は、まさにその「少女」だった。もやもやした、その状況を言い表すのに、これ以上、適切な表現はないというくらい、その一節は自分を言い当てていた。こんな瞬間のことを「言葉が与えられた」と呼ぶのは、何も間違ってはいないだろう。

もちろん、だからといって状況が好転したり、明るくなったりしたわけではないけれど、自分が何者かということだけは、少しわかった気がした。詩がもしも「役に立つ」と言えるとしたら、きっとそんな風に、人生の節目にそっと手を添えてくれる、そんな感じ。

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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。