おいしいものを食べよう──「イギリス料理はなぜまずい?」

イギリス料理はおいしくない──。かの国に行ったことのない自分でも、そういう評判を耳にする。ロンドンを訪れた友人は「バタービール(ハリーポッターに出てくる)を再現した飲み物、飲んだけど完全に虚無の味がした」とコメントし、またある人は「イギリスで食に困っても、海を渡ればフランスがある(から問題ない)」と言う。

なぜイギリス料理はまずいのか。もとい、なぜまずく「なった」のか。そんなことを書いた本があったので、立ち読みの末、レジに持って行った。『武器としての「資本論」』、著者は白井聡。

自分なりに、この本に書かれた答えをまとめるとこうなる。

昔はイギリスにも食文化があった。食文化とは、単に美食家がいるだけでは生まれない。一般庶民が食を楽しむ素地がなければならない。つまり、貧しい人々でも、イベントのときには贅沢な食事を作る風習(日本なら、おせち等)があり、人から人へとその料理を伝えていく文化が必要になる。しかしイギリスの場合、19世紀の産業革命によって、それが完全に破壊された。

土地が買い占められて農村が消滅し、それに伴って、農業を中心に形成されていた共同体が消えた。共同体に伴う数々のイベント──お祭りや祝宴など──も自然消滅した。庶民が「ちょっといいもの」を食べる機会がなくなり、舌の肥えた人々を育てていた地盤を、イギリスはこのときに失った。

一度壊れたものは、簡単に元には戻らない。一部の富裕層は、国外からおいしい料理や料理人を呼び入れて食事を楽しんだが、それはイギリス料理を支え、発展させていくことにはならなかった──。

以上が、ざっとまとめたイギリス料理の悲しい歴史である。これまで「かの国の食事はおいしくない」という話は聞いても、その理由までは深く追求してこなかった身として、この話は新鮮だった。なるほど、おいしいものを食べるきっかけが、生活の中にまずあって、そこからおいしい料理も生まれてくるんだ……としみじみする。

何かの節目やお祝いに、あるいは誰かを慰めるために、「おいしいもの食べようよ」と言えること。そうして、そういう場所で「おいしいもの」とは何かを学んでいくこと。ちょっと特別な日を飾る、いつもより少しだけ贅沢な食事。それらのすべてが「食文化」を形作っている。

そう考えると、大人の役割のひとつっていうのは「何がおいしいかを伝えていく」ことにあるのかもしれない。そして、今の日本の食文化も、そういう人たちによって支えられてきたんだろう。毎日の食事がおいしいことは、それだけで立派な文化を成しているのだ。明日の夕飯は、ちょっと気合入れようかな、とか、そんなことを思う。

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