被害者を責める心理

人は、加害者と被害者がいるとき、被害者のほうを責めがちである──という話を聞いた。例えば学校でいじめが起きたとき、いじめられた側に「あなたにも非がある」と言うこと、あるいは性犯罪に遭った女性に対し、「自衛が不十分だった」と責めること。

やる方が悪いに決まっているのに、どうして被害者を叩いてしまうのか?

いじめを例に考えてみると、いじめる側が悪いのはもちろんだけれど、学校という制度や空間デザインにも問題はある。たいていの学校は、人を管理するよう設計されているため閉鎖的な雰囲気であり、自分の通った中学校に関して言えば、ほとんど刑務所のようだった。そこに、同じ年齢で一定の入学条件を満たすというだけで、趣味も性格もまるでバラバラな子どもたちが一斉に集められる。この構造に非はないのだろうか。いじめと無関係だと言えるんだろうか。

でもたいていの人は言う。「そんなこと言っても」と。
「学校の制度や空間設計に文句を言っても何も変わらないでしょう。もっと地に足を着けて考えないと。変わらないものは変わらないんだから」
この台詞に、人が被害者を責める理由が凝縮されている。

社会構造や加害者を変えることは難しい。そんなことをしようとしても、徒労に終わるのは目に見えている。ならば、と人は思う。手っ取り早く変えられるところに目を向けたほうがいい。そして被害者が攻撃の対象になる。被害者は叩けば変わると思っているからだ。
「制度や加害者は変えられないけれど、あなたは変われるのだから変わるべき」という安易な発想。

「大きなものと闘って徒労に終わりたくない」「自分を無力だと思いたくない」という気持ちはわかる。わかるけどそこまでだ。「だから被害者のほうを叩いて変えよう!」とはならない。悪いのは加害者であり、それらを産み出した社会や制度にも責任の一端はある。そこから目を逸らす限り、問題は何も解決しない。

それがどんなに無力だとわかっていても、悪いことをしたほうが悪いのだと言い続けることには価値がある。そうすれば、何もしていない被害者は精神的にそれ以上おいつめられないし、自分に非があったと自己嫌悪せずに済む。それに続けていれば、綺麗事ではなく、社会のほうが変わることだってある。

そういえば最近では「痴漢に注意」と女性に自衛を呼びかけていた看板が撤去され、「監視カメラ作動中。痴漢は犯罪です」と加害者側に訴えるものになるという変化も見られて、ちょっとずついろんなことがよくなっている。そういうことだって起こるのだから、安易に絶望して被害者を責めに走るのは、やっぱりどう見ても悪手だ。

なんのニュースを見たとは言わないけど、最近の報道を見ていてそう考えた。



本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。