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「やりたい」気持ち、素直に認めてる?【ニーチェ超解説】

この言葉が、
あなたの行動を見つめ直す
きっかけになります。

あなたは、
自分の「やりたい」を
肯定できていますか?


メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。

【ニーチェ超解説】は、
ニーチェの言葉を私なりの解釈で
「超」解説するシリーズです。

さて、今回の言葉ですが、
その内容は、
コントのような二人のかけあい
なっています。

その辺りを楽しみながら、
読んでみてください。

ところで一体、なぜ君はものを書くのか

 A「私は、ペンにインクを含ませながらものを考えるような人間ではない。ましてや、椅子に鎮座し、紙を睨みながら、開けたインク壺を前に、情熱に身を任せるような手合いではない。私はおよそ執筆というものに怒りを恥辱を感じるのだ。執筆などは私にとって、糊口の資にすぎない。――それについて遠回しに語ることさえ、私には厭わしいことだ」。B「それなら、君はいったいなぜものを書くのか?」。A「そうだね、友だちだから打ち明けて言うが、自分の思想を厄介払いするのに、いまのところほかの手が見つからないからさ」。B「ならば、なぜ君は思考を厄介払いしたいのか?」。A「なぜそうしたいかだって? そうしたいというか、やむをえずというか……」――B「いや、分かったから、もう結構!」。
(『喜ばしき知恵』93)


超解説

本当にコントみたいです(笑)

今回の言葉、
個人的に昔から
とても好きなんです。

笑いの要素が
非常に色濃く出ていて、
とてもニーチェらしい言葉に
なっていると思います。

(ニーチェの笑いの要素に
 ついては、
 以下の記事を
 是非ご覧ください。)
 ↓ ↓ ↓


今回の内容で、

Aさんはこの会話を通して、

自分はものを書くことを
嫌悪している、
自分は自分の考えを
厄介払いしたいだけなんだ

と言い続けています。

ものを書くことは、

やりたくてやっている
というわけではなく、
嫌々やっていることなんだ

と述べているわけですね。

文中にある
「怒り」「恥辱」
という語からも、
考えを書き表すことへの
Aさんの嫌悪感が
あらわれています。

それに対してBさんは、

Aさん、君は本当は、
考えを書き表すことは
やりたくてやっているのでは?

と問い詰めているように
見えます。

そう問われても、
Aさんは、
やりたくてやっているとは
はっきり認めようと
しません。

(少なくとも
 ものを書くことは嫌でも、
 考えをあらわすことは
 やりたくてやっていると
 認めても良さそうな
 ものですが……)

それに業を煮やして
Bさんは、
「もう結構!」
とケリをつける。

根本的には
「そうしたい」
望んでいることを
自ら認められず、
「仕方なしにそうしている」
と抑圧する様
ここでニーチェは
批判しているのでは
ないでしょうか?


自らの考えを
否定的に捉え、
伝えることを嫌々行う
Aさんの態度とは
真逆の位置にいるのが、

『ツァラトゥストラかく語りき』
の主人公ツァラトゥストラです。

ツァラトゥストラは
次のように述べています。

 見よ、わたしもみずからの知恵に飽きた。あまりにも夥(おびただ)しく蜜をあつめた蜜蜂のように。私は手を必要とする。わたしの知恵にむかってさしのべられるあまたの手を。
 贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧者たちがふたたびおのれの豊かさに、気づいてよろこぶに至るまで。
(『ツァラトゥストラかく語りき』「ツァラトゥストラの序説」)

ツァラトゥストラは、
自らの考え(知恵)が
あまりにも多くなって、
溢れんばかりになったため、
「贈りたい」
「分け与えたい」
と明確に述べるほどに
なっています。

蜜蜂の比喩からも、
自らの考えを肯定的に
捉えているだろうことが
読み取れます。

ツァラトゥストラは
己の考えを肯定的に捉え、

それを伝えることを、
はっきりと
「やりたい」
と認めるわけです。

(これらの点については、
 同書の「夜の歌」も
 参照するとよいでしょう。)

このように
自らの考えを
肯定的に捉えて
分け与えようとする
ツァラトゥストラ、

そして、
自らの考えを
否定的に捉えて
厄介払いしようとする
Aさん、

この2人の違い、
つまり、
自らの内にある考えを
肯定的に捉えるか、
否定的に捉えるか、
という違いが
生きる態度の違いだと
おそらくニーチェは
捉えています。

もちろん、
肯定的に捉える方を
評価し、
否定的に捉える方を
批判するわけですね。


さて、
今回の言葉を深読みすると、

自分の考えを
表現することにとどまらず、

自分の内にあるものを
外にあらわそうとする

そんな行為全般に
今回の言葉が
当てはめられる
ように
思えてきます。

今回の言葉でニーチェは、

自分の内にある
溢れんばかりのものを、
仕方ないからと言いながら
行動にあらわそうと
する人がいる

しかし、
その人の行動は、
根本的には、
仕方なしにではなく、
やりたくてやろうと
しているのではないか

こう問いかけていると
読むこともできます。


自分の内にあるが
認めたくない欲望について
考えてみてください。

もしあなたに、

「自分には、
 認めたくないけど
 こんな欲望があって
 どうしようもないほどだ。
 こんな否定的なものは
 厄介払いしたいから、
 私は仕方なく
 ○○という行動を取る」

といったことがあったとしたら、

ニーチェは、

「あなたは
 その欲望を肯定的に
 捉えた方がいい。
 だから行動に関しても
 仕方なしにではなく、
 はっきりと
 やりたくてやっている
 と認めてはどうか」

と指摘するのでは
ないでしょうか。

……しかし、そうすると、

その欲望が
どうしても悪いものとしか
思えない場合は、
一体どうすればいいのか

そんな問題が
浮かんできます……。 

ここに至って、
ニーチェが道徳自体を
批判したことも
合わせて考える必要が
出てくるわけです。

(前回の
 【ニーチェ超解説】でも
 最後に至って、
 ニーチェの道徳批判を
 考える必要性があると
 指摘しました。)
 ↓ ↓ ↓

ニーチェの道徳批判は、
またいずれ
取り上げることにします。


さしあたっては、
今回の言葉に
共感するところが
あった人は、

まず
己の内にある考え、
あるいは欲望を、
できる分だけでいいので
肯定的に捉えることから
始めてみるのは
いかがでしょう。

そのことが
生きる態度を少しでも
変えることにつながると
思います。


今回の超解説は以上です。

ご参考になればと思います!


参考文献

フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』村井則夫(訳)、河出書房、2012年。
フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』佐々木中(訳)、河出書房、2015年。


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