経験者が考える場面緘黙アレコレ①[話しやすい人数とは&発達障害について]

場面緘黙症についてシリーズで書けたらいいな、と思い立ったものの、順を追って書くのが苦手なタイプなので、思いついたことを勝手に呟く形となるかと思います。

1回目は、「元場面緘黙症が話しやすい人数とは?」からの「発達障害との関係」。
(本当は、話しやすい人数で終わらせるつもりでしたが気付いたら深入りしちゃった…)

私は、幼稚園年少〜小1までは「話せない子」、小1で友達に一言返せたことをきっかけに「少しは話せるが目立たない緘黙」となり、40超えアラフォーの今は話したいことならベラベラ話せるが(※一方的・視線は泳ぎがち)、基本的には人見知りという人間です。

(ASD・ADHDを薄く持っているらしいことが生後41年後に判明しています。)

初対面の人と二人きり。しかも相手との立場は(例えばママ友さんなど)自分と大差ない、という状況が結構キツイです。
相手がどんな人なのか全く分からないから、なんとか情報収集をしないといけない。
これが苦手。

何を聞いたら良いか、こんな内容を聞いたら図々しいのではないか、と悩みまくり、結局は(相手が話してくれるタイプでない場合は特に)お互い大変気を遣った会話となりがちです。

この状態を長年、「自分は大人しいのだ」「緊張が強いのだ」「コミュ力がない」という、ところで思考停止していたものの、時として「何かあるはず…この分からなさが嫌だ…」と思っていたところ、実は子供のASD診断を機に繋がる日が来たのです。

まず、何も情報を知らない相手と一緒にいる時、非常に緊張する。
相手の身体の動きとか、考えているであろう感情について「気付く」ものの、それをどう扱ってよいかわからない。

(村上靖彦著、『自閉症の現象学』では、視線が合うことで「相手の運動や感情が私の体において直接体験される」「このような次元が間身体性である」、「組織化(相手の感情や運動を理解する)が弱いと自他の区別が曖昧で、視線が侵入してくるものと感じると書かれています。「侵入」は身に覚えがある感覚です。
p.33に書かれている「対人志向の成立」は緘黙時代の自分にとてもよく当てはまります。「相手からの視線は感じているのに、自分から相手に向けて呼びかけることができない状態、あるいは相手に声をかけるのが極端に苦手な状態がある。その場合舞台を傍観しているような状態になることもある。周りの人に関心があるので眺めているが、自分から関わったり、言葉をかけたりすることはない。まるで観客と俳優が違う世界に属しているのと同じようである。」緘黙そのものでは…)
(哲学専門の方が書かれているこちらの本は、素人の自分にはとても難解のため、間違いがあるかも知れません)

相手と対峙した時、なんとも言えない恐怖のようなものを、特に幼い頃は感じていたように思います。
年齢と共に、相手も初対面だから緊張しているだろうな、などと考えられるようになりましたが、やはり最初に口火を切るのはとても難しい。

急にテーマに戻りますが、自分にとって楽な人数は「3〜4人ぐらい」、理想は「3人」です。
残りの人が先に会話を始めてくれ(他力でごめんなさい)、ある程度相手のことが見えてくると楽になる。

相手がどれくらいのテンションで話すタイプの人か、外交的か内向的か等、分かってくると少し緊張レベルが下がる。

ただ、よくあるのが、ある程度時間が経ったあと、その中の一人(Aさんとする)と二人だけで会話し、その後に残りの人(Bさんとする)が混じった場合に、Aさんが途端に明るく楽しそうに話すという状況。
これは結構ガーンときます。

ああ私はやっぱり話しにくいんだなー、暗いよな、真面目過ぎるよなー、と悶々とします。

まあ、そっち系(発達あるっぽい)と分かってからは、「仕方ないよな」思考になれたので、分かって良かったのですが。

場面緘黙症真っ最中は、本当に「声が出ない」ことが辛くて仕方ないのですが、話せるようになった今でも、人と対峙した時の不安感や緊張感は、緩まっているとはいえ、感覚的には似ているのです。

話せない頃は、完全に自分は口を閉ざされて何も動けないロボット状態。
話せるようになってからは、その「固まる」を話すことで打ち破ることは出来るものの、相手への緊張や自分の話す姿への違和感や妙に強い「自分」への意識(話している自分を、もう一人の自分が眺めている感じがします)は、同じ仲間の感覚です。

場面緘黙症経験者で、話せるようになってからも演技している感覚がある、という人は割と多いと感じるのですが、やはり定型発達の人の、「自分」というものを保ったまま、相手との違いを楽しんだり、共感して喜んだりといったことは非常に苦手のようです。

私の場合、他人と話すと自分を見失うことが多いです。本当に多い。

話し方も声のトーンも、相手のそれが移ってしまうのです。

ASD、過去の名称のアスペルガー症候群、自閉症といった言葉に伴う一般的なイメージは、「一方的に話す」「他人の気持ちがわからない」「奇妙な行動」といったものが多いかと思います。

なので、相手に同調出来ると側から見たら自閉的には見えないかも知れない。

このタイプの(おそらく受動型と言われる)ASDさん、女性には多いようです。

この状態って言葉で見る以上に辛いのです。

個性がない。自分のカラーがない。渾名を付けてもらえない。演技するしか仕方ないのでやっているのに、八方美人などと言われたりするetc…

本当は、個性が無い「のではない」と思います。
本当は、自分の考えも、自分が好きなものも感動するものも、出せる場なら出したい。けれど、一般の社会でその内容がズレがあると感じたりする場面に(ここは直感で感じます)人生のどこかで遭遇し、そこから自分を出せなくなる。

また、(自分の場合はそうだったのですが)視覚優位で敏感に色んなものを感じ取り、本人は劇的な日々を(快と不快の振れ幅が大きく、綺麗な物に出会い感動し涙することはほぼ毎日)過ごしているが、他人に共有する機会がなかったor一人で楽しんでいたかった。

理由は色々あるかと思いますが、(私もまだよくわからない)定型発達という人たちを基準に作られている一般社会では、やはり違和感を感じることになるのです。

場面緘黙症になるのは、その違和感の対処法が分からずフリーズしているという感じが、自分の場合は当てはまります。

どこかで、「話さなければいけない」と自覚することや、運良く理解者に巡り合い、リラックスできた時などに克服のきっかけがあるとは思うのですが、
もし、話せるようになってからも、どうしても他人との距離があったり、演技している感覚があったり、親友の作り方が分からなかったり、あと重要なのが、「やりたいことが分からない」だったり…そんな状態があれば、もしかしたら発達障害特性を疑ってみても良いかもしれません。

(海外では、場面緘黙症と発達障害の併存は7割近いというデータもあるそうです)

1回目から早速、まとまりなくアレコレ書いてしまいましたm(_ _)m)ここまでお読みいただいた方、ありがとうございました!

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