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memoria
2020年3月27日 13:06
そんな父の葬儀、それはそれは派手だった。葬儀屋の部長だかオーナーだか分からないけれど、偉い人が葬儀を終えて母にこう言っていたらしい。「私はチャンスを頂くことができました。私がやりたかったことでした。」と。 今では、葬儀屋さんがあちこちにあって、お通夜も葬儀も自宅で行うのではなく斎場で行う家庭が増えている。田舎であればあるほど、風習や“しきたり”なんかがあって、斎場を使うことに抵抗を示す
2020年3月27日 11:52
父は、母と結婚できないのであれば店を継がずに出て行くと言い、半ばかけ落ち状態で母と結婚したらしい。店を拡大した時、家を建てた時、愛犬の家を作ってあげた時、父のこだわりがあちこちに散りばめられていた。そう、何にでも自分の想いを込めていたんだと思う。それは、「これって必要?」と疑問に思うことや「お金かかるから辞めておこう」と思考で気持ちを黙らせてしまうようなことばかりだった。例えば…この
2020年3月17日 17:03
こんなこともあった。父が他界した後のことだった。銀行へ用事があって行くと職員さんから話しかけられた。「あなた、もしかしてあのお店の娘さん?」と。私はそうですと答えると、「実は私、お父さんによくしてもらったんです。お父さん、あの温泉街で修行していたことがあったでしょ。あの時、私は7才くらいだった。みんながズボンにベルトをしていて私はそれがカッコよくて羨ましかった。すると、「これ使えよ」って自分
2020年3月17日 17:02
父は中学卒業とともに温泉旅館が多い場所で[魚のさばき方]などを修行し、祖父と祖母が営んでいた店を引き継ぎ拡大させ、スーパーと小さい宴会場と大きな宴会場を切り盛りしていた。 人生半ば、父は43歳で他界した。癌と告知を受けた時は「もって1ヶ月」と医師に言われたらしいが、3ヶ月という時間を私たちにくれた。他界した後に、母をはじめ、色々な大人たちから数々の父の話を聞き[自分が知らない父]を知った。
2020年3月13日 17:05
私は、アル中の祖母がいる家庭で育った。思い出されるのは、暴れる祖母から逃げ車の中に隠れたこと、近所の人に荷物用の一輪車に乗せられて帰ってくる祖母の姿をただ見ていたこと、首を吊ろうそする祖母を泣いて止める母の姿、そんな祖母に対して怒り机を蹴飛ばす父の姿、排便しながら暴れる祖母の後始末をする母の姿、大人が大きな声を出しているのを2階で聞いていた姉と私、目つきのすわった祖母にビクビクしながら過ごした私