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「お母ちゃん」

 私は、アル中の祖母がいる家庭で育った。思い出されるのは、暴れる祖母から逃げ車の中に隠れたこと、近所の人に荷物用の一輪車に乗せられて帰ってくる祖母の姿をただ見ていたこと、首を吊ろうそする祖母を泣いて止める母の姿、そんな祖母に対して怒り机を蹴飛ばす父の姿、排便しながら暴れる祖母の後始末をする母の姿、大人が大きな声を出しているのを2階で聞いていた姉と私、目つきのすわった祖母にビクビクしながら過ごした私。高校入学直後、父が癌で他界し、これと同時に母はパニック障害や更年期障害を併発、私は摂食障害と鬱を併発、姉も鬱を患った。祖母は、相変わらずアルコール依存症で、そして私たち家族の財布からお金を盗むということが加った。家族全員がバラバラだった。

 私は約25年間、摂食障害に苦しんだ。幼少期から私が安心できる場所はなく、父親が他界した後は、ますます安心できる場所、ありのままで居られる場所はなくなった。その、どうしようもない感情を摂食障害という症状で外へ出し、生きのびた。その矢を、人ではなく自分へ向けることで[生き地獄]となってしまったが、前を見続け歩み続けた。それは、とても脆く弱い前進だったが、少しずつ成長を重ねた。

 そして、東北大震災をキッカケに「なぜ生まれて来たのか」「なぜ生きるのか」「なぜこんな摂食障害になんてなったのか」と知りたい想いと摂食障害を本気で治したいという想いが強くなった。自分と向き合い始め、ある医師との出会いもあり徐々に回復していった。幼少期からの記憶を整理すると同時に、「なんで、お母ちゃんはあの時あんな言葉を言ってきたんだろう」「なんで、私がお母ちゃんの犠牲になんなくちゃなんないんだろう」「なんで、分かってもらえないんだろう。なんで聞いても向きあってももらえないんだろう」という、母への怒りや恨みの感情が湧き出した。

 摂食障害を患って13年目、母へこのことを始めて打ち開けた。覚えているのは母からの「気付いてあげられなくてごめんね」「辛かったね」などの謝罪や労い、共感の言葉ではなく、

「治ってもらわなきゃ困る」

という言葉だった。興奮気味だった感情がサーっと冷めたのをよく覚えているし、「ああ、やっぱりか」とどこか想定内だったような、諦めのような気持ちになったのを覚えている。

 そして今、私は結婚し子どもを設け、1人の親として生きている。我が子を通して産後の体の痛みから子どもの夜泣き、急な高熱に病院受診、医者もサジを投げかけた卵アレルギーに便秘、親としてのプレッシャー...と激動の時間を経験した。子どもが成長し、2年7ヶ月続いた酷い夜泣きも終わり、私は少しずつ子どもと笑える時間が増え、今では愛おしいと思える時間を過ごせている。「やっと、ここまでこれた」という感じで、私自身が子どもに成長させてもらったということを実感している。

 私の母は、2つの宴会場が一緒になった小さなスーパーを父と切盛りしてきた。父が他界後も約7年ほど店を開け続けた。そこにはいつもアル中の祖母がいた。そんな中、私と姉を生み、育ててくれた。妊娠、出産、育児を経験しそれがどれほど体も、 心も負担が大きいかを知り、母への尊敬と感謝の気持ちが芽生え、それは日に日に大きくなっていった。

 そして、去年10月に10年勤めた言語聴覚士というリハビリの仕事を辞めた。国家資格を得るために、母が、父が残してくれたお金をその資金に当ててくれたとても大切な資格だった。けれど、私は「絵を描いたり、文字や言葉にしたり、何か創り出して人と関わる人生を生きたい」と半ば衝動的に辞めた。私が仕事で挫折した際には、

「辞めてもらったら困る。どんだけ金使ったと思ってんだ」

と言われた。この事を思い出すと、これから先のことについてなかなか話すことができなかった。案の定、いつ言語聴覚士として復職するのかと問われた。その時はこう答えていた。

「お父ちゃんが死んで、あたし、ずっとずっと走り続けてきた。自分のことを後回しにして。頑張って頑張っても、まだだ、まだまだだって走り続けてきた。だから、1回ゆっくり休んでもいいよね?自分の好きな時間を過ごしてもいいよね?神様からのご褒美だって。」

と。母は、黙っていた。

2ヶ月が過ぎた頃、毎日毎日楽しく絵を描き、その絵が売れる様子や実際に絵を見た母は、

「1ヶ月はダメだったなあ…。お前が資格を捨てて全く別のことをやるって決めたことが。」

と言い出した。この言葉の先を想定して私が口を割った。

「大金かけたのにってでしょ。」

すると母は

「違う、勉強あんなに一生懸命がんばって、仕事始めても苦労してた姿見てたから、なんで簡単に資格捨てられるんだって不思議だった。だけど、こういう時代なんだな。定年まで働くなんて時代じゃないんだよな。しかも、絵を描くなんてな〜。子どもの頃も、特別上手かった訳じゃなかったのに、まさかこうなるとは思ってなかったな〜。」

と話してくれた。そして続けて、

「あれ、どうやって描いてんの?それが不思議。なんであんな風になんの?どうやって書いてるか見てみたい。今度、見せて!」

と言った。私は、想定外のこの母の発言にとても驚き、そして、すごく嬉しかった。初めて、受け入れられたような認めてもらえたような気がして、嬉しかった。この日を境に、たくさんの母との思い出を思い出した。そして、実感した。

 私は、「お母ちゃんが大好き」だということを。

 アル中の祖母から逃げる時、その記憶には父の姿はなくいつも母がそばにいてくれた。地震があると父が姉を、母が私を抱き抱えてくれた。目の手術をする時も、顔を背けてながらも母がそばにいてくれた。参観日には、仕事着のままエプロンだけ外したような状態で走って来てくれた。廊下から私に手を振ってくれ、笑顔でまた店へ戻っていった。少しの時間しか授業は見てもらえないけど、あの時の笑顔が「良くやってるね」と褒めてくれているみたいで、私は全然寂しくなんてなかった。アル中の祖母から離れるために一時は団地に住んだが、茶の間の窓を開けると何と、店の駐車場で挨拶している母の声「ありがとうございました」が聞こえた。顔なんて見えないけど、その声は活き活きしていて笑顔の母が思い浮かび、私はなんだか誇らしかった。私が「やりたい!」とやらせて貰ったスキーの送り迎えはほぼ父が担当していた。その間に母は、店の片付けや帳簿付けをしていた。まれに、スキー場に母も来てくれることがあった。その時ばかりは、良い所を見せようと張り切って、わざわざ母が見えるコースを選んで滑り降りた。下まで行くと、店で履いている真っ赤な長靴とジーパン姿の母が、満面の笑みで私を見つめていてくれた。

 いつだっていつだって、母は笑顔だった。思い出すのは笑顔ばかり。どんなに辛い日でも笑顔に努めてくれていたんだと、今なら分かる。そして、私は、たくさんの愛で育てられ、愛されていた。守られていた。

 摂食障害と向き合い、その中で自分は幼少期から「安心できる場所なんて、何一つ、どこにもなかった」と振り返ったが、すべてがそうではなかった。確かに、母に守られていた。母の笑顔に安心していた。

 父の癌告知と同時に、大好きな母の笑顔は少なくなり、父の他界と同時に笑顔は消えた。大好きな人の笑顔が消えた、それが私にとってとても辛く、恐怖さえ感じる日々となってしまった。たくさんの経験と歳月を経て、今の私なら分かることがある。

 その一つ一つが、どんな小さなできごとでも、どんなに当たり前と感じるようなことでも、すべてが[尊い]ということ。

 私は母を「お母ちゃん」と呼ぶ。思春期になると呼ぶのが恥ずかしくて、母になぜそんな呼び方をさせたのかを聞いた。すると、「ママって柄でもないしさ。お母ちゃんって子どもが呼ぶ姿が可愛くて。」と笑った。昭和の激動の時代を生きた、生き抜いた母。武器用な言葉、武器用な態度。「お母ちゃん」と呼ぶたびに、「ママ」でも「お母さん」でも「お袋」でもない、深い温もりを感じる。

 「お母ちゃん」

 そう呼べる人がいること、その人が笑っていること、その人とまだ思い出を増やせること、その人と笑って話せること、その人の瞳の中に自分が笑って写っていられること、すべてすべてが尊い。

 「お母ちゃん」

 私を生んでくれて ありがとう。

 「お母ちゃん」

 私を守ってくれて ありがとう。

 「お母ちゃん」

 たくさんの笑顔と愛をくれて ありがとう。



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