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「お父ちゃん」 ②

 こんなこともあった。父が他界した後のことだった。銀行へ用事があって行くと職員さんから話しかけられた。「あなた、もしかしてあのお店の娘さん?」と。私はそうですと答えると、

「実は私、お父さんによくしてもらったんです。お父さん、あの温泉街で修行していたことがあったでしょ。あの時、私は7才くらいだった。みんながズボンにベルトをしていて私はそれがカッコよくて羨ましかった。すると、「これ使えよ」って自分のベルトを外して、その場で私にくれたんです。あの時私はすごく嬉しくって、あなたのお父さんの優しさがすごく心に染みたんです」

と涙を浮かべながら話してくれた。私よりもはるかに年上で、体も大柄な男性のその方は、目を潤ませながら笑顔で話してくれた。私の知らない父を、素敵な父を、他界した後に知り、私は心の穴がほんの少し埋まるような、嬉しい気持ちになった。何年も経って、同じ職場で少し仲良くさせてもらっていた職員さんが、実はこの男性の娘さんだったことを知った。この時のエピソードを娘さんに話すと娘さんも涙ぐまれ、私も職場ではあったけれど目を潤ませた。

 こんなこともあった。父と母が切り盛りしていた店を、父が他界後も母は必死に開け続けた。店に関わる大人がたくさん出入りしているのは幼少期から見ていたが、とても印象に残っている人がいる。その人は、父が他界後に店に来てくれ父の話をしてくれた。

「自分は、市場に行くと新米だから相手にしてもらえなかった。それに、厳しい世界でもあるから実力がなくて相手にされず無視されることだってあった。だけど、ある日いつものように先輩たちにおはようございますと挨拶すると、あなたのお父さんだけ、いったん話を止めて、そして自分の方に顔を向けてくれて「おはよう」って挨拶してくれた。この時、すごく嬉しかったしまた頑張って行こうって思えたんだよ。忘れられない思い出なんだ。」

と。

父が他界した後に知る、私の知らない父の思い出や父の想いが連鎖していくのがとてもとても嬉しかった。

 そして、アル中の祖母に対して怒り机を蹴飛ばしたり、エプロンを床に投げつける様子なんかよりも、もっと違う、店で活きいきと活躍する姿ばかりが私にとっては強く心に残っている。

 こんなに大きなマグロやカツオをどんどんさばいて刺身にして店頭に並べる姿、クリスマスにはチキンを何日も前から仕込んだタレにつけて、当日はオーブンの前で汗だくになりながら次から次へと焼いている姿、80人のお客さんがお座敷で宴会をする時は、母とパートさんと次から次へと料理を作ってはお出しする。その時、真剣に味見をする父の集中した横顔。骨が太い魚や冷凍されている切り身を切る時は、強い力で包丁を下ろす。その包丁の種類はたくさんあって、父自身が研いでいた。スパスパに切れて、近づくとよく本気で怒られた。その包丁で指を切った時は、ゾッとするほど血が出て子どもの私たちは心配した。けれど父は、それを楽しみ、

「縫ったとこ見っか?」

と傷口を見せたがり、完治すれば触らせたがり、

「こっちの傷はな、、、」

と手についている数々の傷を笑顔で自慢した。新鮮な魚を新鮮なうちに美味しくお客さんへ提供している中、商品としては出せない部分を私たちに食べさせてくることがあった。その中でも特に、刺身の切れ端を[刺身用の醤油]につけて父の手から直接口に放り込まれるマグロが格別に美味しかった。「うまっ!」という私に

「だべ〜」

と満面の笑みで答えてくれた。

家に帰ると、茶の間にドンと座ったままもう立たない。あれ持ってこい、それこっちへよこせと家族を召使い化する。自分がさばいた刺身を旨いと食べながら、テレビを占領しプロ野球を観ていた。その父の膝の上に乗ると、魚と油の臭いがした。洗っても洗っても取れないと笑って言っていた。年中、長靴で仕事をするため水虫は常だった。その足を私たちに擦り付けようといたずらしては、思春期の姉にブチ切れられたり母に「また!」と怒られたりしては笑っていた。


休日は、大きい方の座敷でビールとおつまみを用意して、当時は珍しい70インチのテレビでアクション映画を観ていた。今はもうほぼ聞かない[レーザーディスク]を繋いだそのテレビでトムクルーズの代表作の「トップガン」を観ては主人公になったようなつもりで私たち家族に接し、煙たがられたりした。

そう、父は、自分がやりたいことを追求していたんだと思う。自分の気持ちに正直に。今思うと、雑誌に掲載されそうなくらいに『かっこいい生き方』だと私は思ってしまう。

例えば…


〜 すべてが私の一部 「お父ちゃん」③ へ続く 〜