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憂鬱なエモーション

毎日があまりにも早く過ぎていくもので、夕暮れの存在なんか忘れてしまっていた。 珍しい2連休の初日、不道徳な位よく眠った後で。 ベランダに出てタバコを吸うと、そこには夕暮れが広がっていて。 あー、仕事も生活も忙し過ぎて余裕が無かったなあ。と不意に思ったばっかりに10月を急激に楽しまなくてはいけない気持ちになって、旅行の計画などを立てようかと考えてみるも あまり現実的ではないと、静かな10月にすることにした。 彼女は「たいそう残念そう」な顔をしていた。 「いいじゃん、静か

    • 愛するということ。

      愛するというのは難しいものだ。 これは恋愛でもそうだし、人間愛、または物への愛でも同じこと。 たとえば愛を時間に置き換えて見ると、とてもよくわかる。 時間は必ず進んでいく。 私は未来がこちらへ逃げてきていると考えたりもする。 愛も、同じように。 必ず愛を与え続けること。 そうすれば、愛が私の方に逃げてくる。 たとえそれが自分の望む形では無かったとしても。 たとえそれが自分の思う通りの結果で無かったとしても。 それが私の愛を与えた結果なのだ。 彼女は疲れてしまっ

      • 影の中には光の面影を咲かせたい。

        なんだか格好をつけて書き始めたものの、生活の変化、仕事の忙しさに追いやられて大したことを書かずに半年。 そうこうしている間に誕生日を迎え、御年30歳を迎えた。 正直言って、あっけない。 いろいろな事があったから、そちらのほうが大事だった。 年始には姪っ子が自分で命を絶った。 6月には同棲を初めた。 そうこうしている間に、年末が近づいて僕は30歳。 彼女いわく「前後三日三晩続く祭り」によってすっかり甘やかされた以外では、特別なことはなにもない。 いや十分特別なのだけれ

        • 2020.06.01

          今日、正確には昨日。 僕は新しい生活を始めた。 今は少し落ち着いて、というのは遅すぎる時間に起きている。 まあだけど、これも悪くないと思う、過ごす相手が一緒なら。 とはいえ、眠いよ。 頑張っちゃったから。 休もう…

        憂鬱なエモーション

          好きって言葉が欲求の全てを満たすなら。

          好き、という言葉で僕の全ての欲求が満たされるなら 君は何の心配もなく、気遣いもなく、僕と笑って居られるだろう。 気乗りのしないセックスを断ることもなく。 全く悪者にもならず、ただ手をつないで恥ずかしがって 僕の男性器を触って安心するとフザケては、僕が君の体に触れる度に手で払う必要もない。 コミュニケーションとはなんだろうか。 僕はそんなにも過ぎたものを相手に求めているのだろうか。 君は言うんだろう「ハッキリいわないから」と 僕は思うんだ「お前の気持ち一つで断られるも

          好きって言葉が欲求の全てを満たすなら。

          生きるという不純なまでの美しさ。

          生まれてこの方、気を遣わずに居たことなんてなかった気がする。 どこかで僕だけが悪者になってはいけない、という考え方で生きてきた。 些細なことで、もう何も気を遣えなくなって。 そう、例えば布団におでんをこぼしてしまったりとか… そんなどうでも良いこと一つが引き金になるくらい 毎日、他人に気を遣って生きているんだと、つい5分前に感じた次第。 こういうところが子供だから、賢く振る舞わなきゃいけないな… 「ほら、また気遣いだ」 「お前はそうやってワガママを通さないように

          生きるという不純なまでの美しさ。

          Long Goodbye.

          私が若いころ彼女は生まれて、そして昨日去っていった。 18年間、短いけれど叔父さんは楽しかったよ。 色々なことがあったね。 僕の姉がお前たち兄妹を残して家を出ていったときも 僕の義兄、お前たち兄妹の父親が限界になって出ていったときも あんなに小さかったのに、大変だった。 それでも耐えて、ちゃんと生きようとしてくれたお前が叔父さんは誇らしい。 最近の二年間は、本当にお前と会うのが楽しみだった。 面白いくらい自分の若い頃に似ていて、ファッションの話、本当に少しの話が面白

          Long Goodbye.

          ホワイトソースで白飯は食べられない。

          夢の中への入り口はいつも開いている。 夜空の下、枕元、バスの中、電車の中、車の車窓… そして呆然と生きている毎日。 私は時折、現実に居ながらも後頭部にグウと意識が引っ張られて、いずれ自分の体を抜け出した自分が、まるで戯曲用の人形みたいにセカセカと動く自分を眺めてしまう。 きっとこれも、夢の中にいるということ。 わかりやすいほどにファンタジーな表現もない、現実から出たサビを削り落とし、チグハグな食べ合わせを求められたときの言い様のない気持ち。 慈しみと気遣いと愛情

          ホワイトソースで白飯は食べられない。

          産声は、光速を超える。

          僕は1990/10/27に三重県は名張市に生まれた。 信心深い病院だったらしく、僕の産声はテープに残っている。 第一声で叫びすぎたのだろう。 主張ってやつが、とても苦手だ。 そのわりにコダワリはつよい。 耳触り、手触り、舌触り、黄金比… 「しっくりくる」にすべてを預けて生きている。 …と、同時に見た目の割に格好つけたがりでもある。 そんな僕が三歳だか、四歳だかの頃、埼玉県の東松山市に降り立つ。 引っ越しの道中では高熱を出していた、らしい。 ただ淡い記憶の中で、僕

          産声は、光速を超える。

          「さらば」と云うには、遠すぎる。

          初めてみる、初めてみた。 やっている、やっていた。 どちらでも良いことの連続で毎日が進んでいくのだけれど、僕は何を言いたいか?といえば絵画や音楽のように、写真や文章を楽しみたいだけだ。 1990年、10月27日に生まれ 今年が20代最後の年。 僕は何を思うのだろうか。 僕は何に思われるのだろうか。 どちらでも良いことの連続で明日が逃げてくる。 さよなら四角い明日よ。 「さらば」というには、遠すぎる。

          「さらば」と云うには、遠すぎる。