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「知覚の扉」とは何か? ドアーズというバンドが好きだった話から考えてみる

※写真は2019年に森美術館で開催された塩田千春展「魂がふるえる」で個人的記録として撮影したものです。

アカウント名の「扉」は、アメリカのロックバンドThe Doorsから拝借している。田舎(井戸)から上京し自分はひとりで生きているのだと思いつつ井戸の周りをぐるぐる周り続けていた蛙時代、東京の地下鉄通路をオラオラと虚勢を張って歩く用ソングがドアーズの「Break on throuth」だった。

初めてドアーズの1stアルバムを聴いた時のリアクションは、「ちょ、足から引きずり込まれる(怖)」→再生強制終了である。頭から引き寄せられるように惹かれる音楽もあるし興味をもつほとんどはその類のものだけど、これは明らかに足からもっていかれる系の数少ない音楽であり、初めてそういう体験をしたバンドだった。「Break on throuth」はファーストの1曲目に収録されている。イントロが流れるだけで万能感が湧いてくる麻薬のような曲。「向こう側に突き抜けろ」とジムは繰り返し、何があるのかもわからない向こう側に、私は憧れた。

さて、歌詞の一番大事な部分の解釈が2パターンある。
ひとつめは
The gate is strait(扉は狭いが)
Deep and wide(その先は深く広い)

ふたつめは
The gate is straight(いたる道はまっすぐで)
Deep and wide(深く広い)

最初は翻訳の段階のどこかで手違いがあったのだろうと思ったが、英語で検索してみてもstraitとstraightの両パターンが出てくる。どっちやねんと思ったが、知覚の扉が何であるのかを考えれば、strait(狭い)と捉えるのが正しいと私は思う。
バンド名「Doors」は、詩人ウィリアム・ブレイクの詩から引用したオルダス・ハクスリーの『知覚の扉』に由来する。提案したのはジム・モリスンである。

If the doors of perception were cleansed, everything would appear to man as it truly is, infinite.
”知覚の扉が澄み渡れば、すべてはありのまま永遠のものとして立ち顕れるだろう” ——William Blake

すべてがありのままに、しかも永遠のものとして見えるということはどういうことなのか。『知覚の扉』には、ハクスリーが幻覚剤メスカリンを用いて行った幻覚体験記録とそれに関する考察が書かれている。少し長くなるが、その内容の一部を引用する。

生き生きとした花の光の中に質的に呼吸に相当するものが認められるように思えた——ただしその呼吸は出発点に戻ることのない呼吸で、潮がくり返し引くということはなく、ただひたすら美からさらに高度な美へ、深き意味から更に深き意味へと絶えず昇っていく流れである。〈恩寵〉とか〈変容〉といった言葉が心に浮かんだ。オルダス・ハクスリー(1995)『知覚の扉」河村錠一郎訳、平凡社、p.20
〈神の示現〉、〈Sat Chit Ananda〉、〈存在ー認識ー至福〉——これらのおどろおどろしい言葉の言わんとすることを、私は初めて言葉の次元ではなく、(中略)正確に、完全に理解した。同書、p.20
例えば、書斎の壁にぎっしり並んだ書物。私が眼をやると、花の場合と同じように、これまでにない鮮烈な色彩で、これまでのない深い意味を持って輝いた。ルビーのような赤い本、エメラルドの本、白翡翠装幀の本、瑠璃の本、藍玉の本、黄色トパーズの本、そして瑠璃の本は色彩が非常に強烈で本質的意味にあまりに満ちているために、いまにも棚を抜け出してさらに執拗に私の視線に身を投げ付けてくるかのように思えた。同書、p.21
蔦の葉が生垣から緑の放射線を描いて、きらきらと翡翠のような輝きで光った。その直後には一群の満開のしゃぐまゆりの花が私の視界に炸裂した。あまりにも激しい生命に燃えているため蒼空に向かって背を伸ばしたその花はいまにも言葉を発するかに見えた。同書、p.76

かつて私はこれとかなり似たような経験をしたことがある。夢の中でなぜか臨死体験のようなものをして、目が覚めてから見た世界がまさにこれだった。外に出ると、植物が今までと全く違った様相で自分に迫ってくる。木々は意志があるかのようにゆっくりと揺れ、鮮やかな緑は何かを話しかけてくるように目に飛び込んでくる。存在自体が言葉をもっているような不思議な感覚。生の強い主張。私はその日を静かな混乱のなかで過ごしたが、その異常とも言える感覚は1日だけしか続かなかった。
ある友人は私の話を、それって薬をやっている時の脳の状態だよねと言った。後に『知覚の扉』を読んで猛烈に驚いた。薬はやってない。私は死んだだけだ。その時、私の扉には一体何が起こったのだろうか。

このような状態は、哲学者西田幾多郎がいう「永遠の今」や「純粋経験」のような状態にも似ているかもしれない。今を凝縮した一瞬にのみその根底において永遠がある。逆に言えば、永遠は常に一瞬のうちに点として現れ無数の点として存在し続けている。純粋経験というのは、例えば美しい夕日を見たときに自分がその感動の体験そのものになってしまうような「見るものも見られるものもない」主客合一の状態である。一瞬をありのままにキャッチする時、それはおそらく純粋経験なのだ。だから、永遠に続く扉は限りなくstraitなはずなのである。

ドアーズは、ジム・モリスン(Vo)レイ・マンザレク(Key)ロビー・クリーガー(Gt)、ジョン・デンズモア(Dr)の4人によって結成されたアメリカのロックバンドで、活動期間は1965年から72年のわずか7年間。実質的には、ジムがドラッグのオーバードースによって死亡したとされる71年でバンドの継続は困難となった。

メンバーのジョン・デンズモアの著作『ドアーズ』には、4人の出会いからジムの死までのドアーズの歴史と回想が綴られている。大学の生協で手に入れたこの本を「小集団論」という授業中に読んだ、とそこだけ妙に鮮明な記憶が残っている。ジョンは、バンド後半期の苦悩をこう語っている。

きみのパフォーマンスは一流だった。だが皮肉なことに、聴衆を熱狂させるほど、ぼくたちの孤独は深まっていった。——ジョン・デンズモア『ドアーズ』飛田野裕子訳、早川書房、p212
彼のエネルギーはどんどん消えていった。(中略)ぼくたちのバンドとしてのキャリアは終わったのだ。あとに残ったのは、かつては偉大だった、だがいまや見る影もない、うちひしがれ、力尽きたブルース・シンガーの姿だった。彼は、わずか27歳だった。同書、p.261

予測不可能な言動、ステージでの乱行、警察沙汰、狂気というカリスマ性、どんなにメンバーに混乱と苦痛を与える存在となっていっても、ジム・モリソンはドアーズという音楽が向こう側に繋がろうとするために不可欠な扉だった。おそらくジムは、通常ではない状態、つまり「知覚の扉」がクリアである状態をよく知っていた。メディテーションによって、薬によって、あるいはライブという名の儀式によって。

ステージが終わって、聴衆たちが整然と会場から出ていくということが、ぼくたちにたいする最高の賛辞の証だった。彼らはぼくたちとともに別世界への旅を経験し、終わったときには、もうお互いに与えるものもなく、与えられるものもなくなっている。完全に満たされているのだ。同書、p.202

レイはジムを「エレクトリック・シャーマン」だと言い、ジョンは自分たちの「完全に満たされた」状態のライブについて、宗教儀式のようだったと回想している。

ドアーズが彼を殺したのだ。にもかかわらず、バンドのメンバーの誰もそれを意図していなかった(中略)ぼくたちの曲(花)は、奇跡のような生命力をもって花開いたのだ。同書、p.258

聴衆に背中を向けて歌っていたシャイで繊細な詩人だった青年は、いつしかトカゲの王と変貌し、破滅の道を進んでいく。知覚の扉の先にある永遠の実相を垣間見れば見るほど、時間のある世界で生きていくのは困難になるのだろうか。
公表されなかったインタビューで、ジムはこんなことを言っている。

苦痛というものは、人間にとって覚醒作用をもっているんだ。えてして人は苦痛を隠そうとするが、その姿勢は間違っている。苦痛というのは、ラジオなんかと同じように自分と一緒にもち歩くものさ。苦痛を味わい、それに耐えることによって、自分の強さを認識できるんだからね。問題は、どういうふうにもち歩くかってことだ。苦痛というのは感覚のひとつだし——感覚というのは、その人間の一部であり、現実だ。それを恥じたり、隠したりすれば、自分の現実を破壊することになる。だから、人は自らの苦痛を味わう権利を獲得するために立ち上がるべきなんだ。だが、人間は苦痛よりもさらに死を恐れる。おかしいじゃないか。死ぬよりも生きているほうか、はるかに苦しいんだ。死を迎えた瞬間に、苦痛は終わるんだからね。死というのは人間の友だちだ。同書、p.201

「飽くなき探求者は、やがて智惠の王宮にいたる」と考えていたジムは、知覚の扉の向こう側を求めすぎていたのかもしれない。どこまでも「深く広い」永遠を見るということは、今という瞬間をどこまで凝縮して感じることができるかであり、ジムはその感覚を薬によって、ライブの恍惚によって、あるいは苦しみとともに生きようとすることによって研ぎ澄ましていった。おそらくは、詩を書くという行為もまた向こう側との一種の交流だったはずである。そして世界をありのままに受け取ろうとすればするほど、死(永遠)は友として近づいてくる。
セックスやマリファナを吸う時のBGMとして「ハートに火をつけて(Light My Fire)」が好まれたように、『地獄の黙示録』で「ジ・エンド(The  End)」が流されたように、ドアーズの曲は常に死を帯びたものとして、こちらとあちらをつなぐ「扉」として存在していた。逆に言うとなんらかの事情で死に近づく時、扉は澄んで向こう側を映そうとするのだ。私がかつて仮の死の直後に見たのはそういう時の世界だったのではないか。

これで終わりだ、美しい友よ、これで終わりだ、たったひとりの友よ
「The End」

ジムがインタビューで語っていたように、この歌詞の「友」とは紛れもなく「死」のことである。彼は死の間際も、こう思いながら扉の向こう側に逝ったのであろうか。
たとえ扉の向こうを知っても、今までとは違う自分として戻り、生きていくことはできる。しかし死が友であるとしたら、もしその手がこちらに向かって差し延べられれば、不意に手を取ってしまってもけっして不思議ではない。



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