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ごめんね。の先に。出来る事を探してやってあげるということ。

『ごめんね。ごめん。』母親としてやってあげられることとやってあげられないことがある。

私自身も、元旦那さんも、両親が他界しているので、我が家には生存する祖父母がいない。だから、『おじいちゃん宅やおばあちゃん宅を訪ねていく』という事が出来ない。『電話をかける、かかってくる』祖父母はいない。頻繁に『zoomやLINEで連絡する』そんなことをする親族がいない。

いないからこそ、祖父母に代わるような人たちとの繋がりは意識して多く作ってきたが、血縁関係者とそうではない境界線はある。それは大人である私自身も感じるのだが、我が子たちの7歳も感じていることだろう。

普段は口には出さないが、仲良く一緒に過ごしているお友達が家族や親族とやりとりするところをリアルタイムでみて、我が子が泣いた。

『ごめんね。ごめんね。寂しいよね。』どうにかしたら叶えてあげられることと、そうではないことがある。祖父母の存在はどうにもしてあげられない。我が子を抱きしめながら、私自身も泣けてくる。

その日は、普段はこまめに連絡を取らない姉夫婦にLINEのビデオ通話連絡してみたり、私の叔母さんに連絡して、二人からも連絡出来る人がいるという事を体感して貰った。泣かれた時には焦ったが、代わりにでも連絡出来る存在がいたこと、電話に出て貰えたことで、親子ともども救われた。

『寂しい。』

毎年帰省時期、夏休み、年末年始などには感じてきたことだ。訪ねていく場所は、自分自身で決めて訪ねていかない限りないのだ。両親がいない子たち、児童養護施設で育った子たちを想えば、私自身は、親の存在を記憶しており、実家を残して貰えたのだから、幸せであり、お仏壇やお墓参りして、報われる気持ちもあるが、我が子が3歳の時にふと言った言葉は真意だったりもする。

『生きているおじいちゃん、おばあちゃんに会いたいな。』

お墓参りを終えた時に娘が言った言葉を聞いた瞬間に涙が溢れて仕方がなかった。

『会いたいね。会いたいよね。ごめんね。』

車に乗ったがしばらく運転することが出来なかった。

ある時は、保育園で製作物をして帰宅してきた日に、『誰にあげたらいい?』と聞かれた。『お仏壇にあげてね。』と言ったら、『違うの。直接渡したいんだ。』と言われた。

私自身の体験でも、母親を亡くした後にくる母の日は嫌だった。カーネーションを見るのが嫌だった。私が小学生の頃はカーネーションの造花が配られていた。嫌だった。直接渡せる母親がいないからだった。

どうにかしてあげられることと、そうじゃないこと。

無力に感じることもあるが、その感じている気持ちをケアしてあげらることを考えるようにしている。

直接渡したいのならば、直接渡せる祖父母的存在の人に渡させて貰う。

実姉が嫁いだ先のお義父さんを『おじいちゃん』と呼ばせて貰う。今はコロナ禍で訪ねていけないが、二人の為にドライブして、なるべく親族を訪ねていくようにしてみる。

親族に毎回とはいかないが、お中元やお歳暮を送り、関係性がなくならないようにする。そのギフトをきっかけに電話で話せる機会に、ツインズも含めて会話をするようにする。

離婚しているので、父親の存在に関してもどうにもしてあげられないけれど、『次のパパを選べる楽しみがある!』という事を話し、『どんなパパがいいかな〜』という話をオープンにするようにしている。また、『パパがいたらいいな。パパに会いたいな。』と感じても良いとも伝えている。それは叶えてあげられないのだけど、感じていいし、言っても良いと伝えている。

感じる心は何よりも大切なものだから。


『ごめん。ふらふらする、、、』

胃全摘をしているからなのか、気圧に影響されやすいからか、人間だからこそ、具合が悪くなることがある。

胃全摘をしているが順調に回復して元気な方ではあるが、急性低血糖になってしまったりしている時や腸の具合が悪い、水も入らないなど、思うようにならない時があるのは、頻度は少ないが、ないわけではない。

我が子たちを頼りにすることもあり、今は薬の場所を知らせてあり、困った時には、薬を取ってきてもらい、ペットボトルの蓋をあけて、水と薬を渡して貰ったりすることもある。負担をかけているかもしれないが、助けてもらっている。

だから、母親として、出来ない事はあるが、すぐに出来る事ならば、努力してツインズの喜びを増やしてみたりもしている。

朝ご飯を庭で食べる。

狭いし、向かいはマンションだし、道路の側だし、、、とやらない理由をあげはじめたらやらないのだが、我が子たちの気分転換になるならやってあげられること。

具合悪くても、庭ならば、トイレにすぐいけるし、玄関から数歩あるくだけだ。

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嬉しそうな我が子の笑顔が宝だ。

ニトリでガーデンベンチを買い組み立てた。

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我が子たちが出来るところまでトライして、2つ目になると、自分たちでほぼ完成させられていた。

子育てに於いて、出来る事や経験を増やす事や自己肯定感をあげられることは凄く意識している。子育てのゴールは自立と言われますからね。


母親である私自身が、少し苦手なことにもトライしてみている。1週間以上かかりながらツインズのランドセル置き場をDIYで組み立てた。様々な笑えるミスを重ねながら、泣きそうになりながら頑張ってみた。

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親として頑張る姿も見せたい。けれども、弱い姿も見せてよいと思うので、隠さずに見せている。


『ごめんね。』と言いながらでいいじゃないか。


『ごめんな。』

父親が私が小学2年生のころ、きっと寝ていると思いながら、頭を撫でて謝っていた記憶がある。

子供心に、母親を亡くした子供心ではあったが、父親のこの時の『ごめんな』は忘れられないでいる。母親が必要な時代に急にいなくなり凄く寂しかったし、どう日々を過ごしていたか記憶がない年月がある。

『ごめんね。』

私自身が親になり、子供たちに同じ様に謝ることがある。私自身の経験から、親が弱音を吐いたりして、素直な気持ちを言ったって良いと思うのだ。嘘つくより良いと思う。ただ不安にさせたりする為ではなく、『ごめんね。』とは言うが、その先につけていく言葉や行動については、プラスになることを意識している。

『ごめんね。』と伝えるが、その『ごめんね。』と伝えるしかない内容の奥にある気持ちや叶えたいことを少しずつでも、他者の力を借りながらでも、癒したり、叶えてあげたら良いのだと思う。


みんな幸せになる為に生まれてきた

辛いことや悲しいことがあろうとも

前を向いて 幸せを感じながら いきたい

小さな幸せを自分でつくり出し、みつけ、より多くの幸せを感じていきたいもの。

幸せだと感じられることが幸せだから。

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貴方の『ごめんね』の先には何がありますか?

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