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東大に入るのも、死刑囚になるのも。

私は犯罪を犯す人の人生を描いたノンフィクションを好んで読む。
それも、大抵「殺人者」のもの。
時に他者への憎しみや怒りを抱える自分と、「殺人者」となってしまった人との間のどこに違いがあるのだろうか、そう思って彼らの心や歩んできた人生を探りたくなってしまうのだ。

結局、いろいろな「殺人者」の人生を読んでみて、抱く感想は大抵変わらない。
彼らが理解し難い異端者であることは少ない。「人」だからこそ傷つき、悩み、憎み、怒り、荒む。自分と紙一重だ。
人を殺した人の背景に思いをはせるのは、加害者擁護のようにみえるかもしれないが、そうではない。
彼らが自分と紙一重の存在に思えるからこそ、自分の中のあらゆる憎しみや怒りを見つめるならば、彼らの人生を紐解かなければいけないと感じる。

中でも彼の人生は一際人目を引く。
彼は、2人の人間を銃で撃ち殺した後、執拗に銃殺刑に処されることを自ら望み、死んでいった

この本は、そうして心臓を貫かれて死んでいった死刑囚ゲイリーの弟が、なぜ兄がそのような人生を辿らなくてはならなかったのか、家族の歴史を事細かに探っていく話である。(ちなみに村上春樹が「この本を一冊読みとおすことで、僕の人間に対する、あるいは世界に対する基本的な考え方は少なからぬ変更を余儀なくされたのではないかと思う。」と言って、日本語に訳している。)

トラウマのクロニクル

両親が受けた傷と、両親がその関係の中で作り上げた傷は、連綿と繋がり増幅して子供に傷を植え付ける。

兄弟の母は、掟を破ろうものなら父親の打擲を受けた。そしてある日、遊びで「悪霊」を呼び寄せた見返りのように、兄弟2人が無残に死んでいく。血塗られた場所を逃げ出すように、母は遠く故郷を離れる。
兄弟の父は、望まれた子ではなかったため、母子2人しかいない家庭で母親から遠ざけられ続ける幼少期を過ごす。
出会った2人の関係性は決して健全ではなかった。兄弟の父は犯罪をしてはその土地を逃げ、時に刑務所に送還される。流浪の旅の中で子供をもうけるが、父は妻子を知らない土地に残して一人でどこかに行ってしまうような人である。それでも母は夫から逃げることができない。実家に戻ることは出来ないから。父とて、自由を求めながら、拠り所といえば母の存在しかないのである。
互いに原家族を再演するように、激しい暴力を振るいながら、決して離れられないのである。

兄弟の父は、「自分が自由な支配者であること」を家庭で体現させようと、妻子を思い通りの制御のうちに置こうとする。何十個という事細かな家庭の掟を作って、破ろうものなら兄弟を激しく殴打し続ける。
兄弟の母も、それを助ける力はもたない。彼女も夫の暴力によって無力化されているのである。それどころか、増幅した周りに対する恐怖や不安の感情は、彼女をヒステリックな行動に駆り立てる。料理の皿を投げることも日常茶飯事だった。

家庭内で激しい暴力にさらされた兄弟は、家庭を支配する暴力というルールを内面化し、また同時に家庭外で自分を取り戻そうとする。そうして始まるのが、非行である。
中でもゲイリーは犯罪をしては、少年院や刑務所に入れられ、そこでまた性暴力を含むあらゆるおぞましい暴力にさらされて帰ってくる。そして、もはやその他の生き方がわからなくなってしまったかのように、犯罪をしては捕まえられる繰り返しから抜け出せなくなる。

帰る場所をもたない両親は、暴力の中で結びつき、その子が犠牲になり、同時にまた加害に囚われ、暴力のうちに絡め取られていくのである。
この物語にはある種の必然性がある。決してそのレールから外れることはできなくさせる、トラウマの強烈な引力が存在する。その連鎖の中で誰かが癒やされて、連鎖を断ち切ることなどあり得たのだろうか。少なくとも、この物語の中では、暴力から逃げ出そうとすれば、逃げ出した先には暴力があった。
あまりにも救いがないように思えるが、「癒やしのある物語」ばかりが聴かれて、現実には多く存在する「救いがない物語」に耳を塞ぐのはアンフェアだと私は思う。

愛と憎しみの同居

この物語において捨象されずに鮮やかに描写されているのが「愛と憎しみの同居」である。
多くの物語において、愛と憎しみの両方が分かちがたく混ざり合って描かれることは少ない。私達のナラティブは、誰かを愛している時はその人に対する憎しみの欠片を抑圧しようとし、誰かを憎んでいる時はその中に潜む愛を見ることを拒む。しかし実際は、親密圏における関係が愛が100%だったり憎しみが100%だったりすることはないのではないだろうか。

この物語において、親子、兄弟は暴力で結びついていたが、暴力は単純に憎しみの記号なのではなかった。

兄弟が犯罪で施設送りを繰り返す中で、一度だけ、家族全員が集ったクリスマスの日が描かれる。クリスマスツリーは色とりどりに飾られて、母親が作った美味しいごちそうが並ぶ。「愛してるよ。」親子はキスをする。
暴君の父が亡くなった時。母は泣きわめいて叫ぶ。兄ゲイリーは、刑務所でその知らせを聞いて暴れ、割った電球で手首を切る。「母と兄たちが父の死にかくも大きな打撃を受けたことは僕を驚かせた。その死を泣いて悼むほど、みんながまだ父のことを愛していたということに驚いたのだ。」
兄ゲイリーにいじめられていた著者は、怖い兄を敬遠して十何年会わなかった。そんな著者が、ゲイリーの死刑が決まると、死刑を撤回できる術はないものかと奔走する。「これまでのいきさつがどうであれ、僕はゲイリーに死んでほしくなかった。」
著者は「この家族から離れたい、逃げなければならない」と、離れた土地で職業的成功を収める。しかし人を愛することが怖い著者は、安定したパートナーシップを築けず、家庭生活も上手くいかない。著者は結局、原家族を求める。ゲイリーの死後たった一人の家族となった消息不明となっていた長兄を執念深く探し出し、変わり果てた長兄と再会を果たし、複雑に絡み合った家族の歴史を語り合い始める。

自分の親や兄弟やパートナーに対して、嫌な部分をごまかしごまかし「愛している」と思うこともできるし、逆に、嫌なことをされたから「あいつなんてもう嫌いだ」と断罪することもできる。
でも、抑圧した憎しみを見ないからこそ、様々な形をした暴力が関係性の中に徐々に入り込んでいくのではないか。抑圧した愛を見ないからこそ、自らの手で自分の過去も現在も未来も真っ黒に染めてしまうのではないか。
相反する2つの感情をどちらもそのままに見つめることは難しい。でもそれらが分かちがたく同居することは人の常であり、時に自分が認めていない方の感情が事態を決定的にゆり動かす。

死の他に道はなかったのか

自分が彼だったら、と思う。
暴力に満ちた家庭に育って、狂いそうな感情の置所を犯罪にしか見いだせなくなったら。
捕まった先の刑務所でも激しい暴力にさらされて、暴力を振るうことにも振るわれることにも麻痺する生き方を強いられたら。

ちゃんと仕事につきなよ、と言う兄弟にゲイリーは言う。
「俺は職業的犯罪者だよ。」

それは投げやりな諦念と慢性的な深い絶望の淵で発された言葉だっただろう。
自分はもうまともに社会で生きていくことなんて出来ない。
過去や現在から激しく湧き上がる感情の処理の仕方は暴力しか無い。

私だったら。
やはりそんな人生に終止符を打ちたいと思うだろう。

暴力に満ちた刑務所に入ることを承知で犯罪を繰り返すゲイリーにとって、他者破壊と自己破壊は区別のつかないものになっていたのかもしれない。
彼が2人を撃ち殺したのは彼にとって何かしらの衝動の発露としての他者破壊だったかもしれないが、
その他者破壊だって、そこにつきまとう刑罰という自己破壊だって、彼の諦念と絶望のうちにあっては軽いものであっただろう。
2人の殺人という重い罪は、結果的に、終止符を打つのに絶好のチャンスだと彼は捉えたのだろう。

彼の人生を辿ると、どうにもできなかったことの繰り返しが彼を死に至らしめたように思える。
いつかの東大の入学式で上野千鶴子が「東大に入れたのは、環境のおかげだ」と話していたが、逆もそうだ。
「犯罪を犯すのは、環境がそうさせた」。
「東大に入れたのは、努力したからだ」という反論が多いように、「犯罪を犯すのは、個人の性質が悪かったからだ」という反論が大半だろう。
それでも、人間がいかに環境の影響を受けるか。この本を読みながらゲイリーに成り代わってみる。
タブラ・ラサの私に、ゲイリーの生育歴を書き込んでみる。タブラ・ラサのゲイリーに私の生育歴を書き込んでみる。

どうしたら、彼が殺した2人の人と、彼を、救えただろうか。
彼の行動が環境によって多分に形成されたのだとすれば、この問いは、彼個人だけのものではなくなる。
彼の父親が、子供時代に家庭の外に支えてくれる人がいて、家庭からの疎外の影響を緩衝できていたならば。
彼の母親が、暴力を振るう彼の父親から逃げて、生きていける場所があったならば。
彼の家庭にある暴力に気づいて間に入ってくれる人たちがいたならば。
彼が入った刑務所が、暴力に満ちた場所ではなく社会に戻るための場所であったならば。

一人の人生は、決して他人事ではない。
一人の人生は、環境、もっと言うならば社会や歴史と分かちがたくつながっている。そして私は、その社会や歴史の中にいる。
その一人の人生は、自分とつながっているのだ。

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