守られること/侵されること
タイトルの”/”は「対比」の意味ではない。「オモテとウラ」という意味である。
私はこの事実について自分で自分に辟易しながらも、考え続けてきた。
「辟易する」というのは、ある時、身体拘束を受けた時の経験から身体拘束断固反対の立場をとらざるを得なくなった者として、「病院や医療者」という実行者を恨んでいるにも関わらず、同時に実行者である「病院や医療者」に日常を支えられている点にある。
「恨め」と「求めよ」という相反する自分の心のダブルバインドに苦しめられているのである。
この間、知り合いの精神科医が言った。
「精神科病院って、自分を守ってくれる神殿であり、罪を償う刑務所でもあると思うんだよね。」
ここで言われているのは、社会と病者の関係であろう。精神科病院は、過酷な社会から病者を守る場所であり、同時に、社会に適応できないという社会からの罰を受け容れる場所でもある、ということである。
精神科病院では行動に大変な制限を受ける。
病棟から外出できない。これは入院が長くなるにつれ、辛くなってくる。何が辛いって聞かれたらうまく答えられないが、それだけでストレスがたまる。
開放か閉鎖かによってもルールは違うが、スマホやパソコンが一日30分とか決まった時間しか使えない。これはかなり痛手である。「コーピングスキルを身に着けよう」と言われつつ、大きなコーピングの1つである動画視聴や友人との連絡ができない。
ヘビーな入院では「通信制限」という措置が取られることがある。外界とのあらゆる通信が許されない、というものである。これを1ヶ月とかやられると、自分がたった一人で孤独に生きていて、助けてくれる人などいやしないのだ、という信念が強くなっていく。
自殺未遂や自殺企図をすれば、保護室行きである。重い扉とカメラ、むき出しのトイレ(もちろんカメラから見える)。「隔離」という措置になれば、外から鍵をかけられるので、刑務所と何ら変わらない。何を使って自傷するかわからない、ということで、ある病院で隔離中に保護室にあったのはマットレスとぬいぐるみ、漫画数冊だけであった。
そして制限の最たるものが身体拘束。固いベルトで体をベッドと結びつけられる。排泄はその場で。食事は刻み食をスプーンで。時間感覚を失って、ひたすら天井を見る。(身体拘束の経験を知りたい人は、医学書院『精神看護』2021年11月号を読んでください。)
でも、医療者は、これをもちろん患者を傷つけようとしてやっているわけではない。
外界の刺激を少なくしてストレスを減らし、休んでほしい。自由を残してしまったら、外界と接触してしまうから、ある程度強制力が必要。
命をなんとしてでも守らなければいけない。私個人は死にたい人の命を守ることを最上の価値だとは思えないのだけれど、医療者にとっての最上の価値はあくまでも命である。
そして、この制限に苦しめられつつも、安らぎを得ている自分もいる。
私は周りの人たちに対して体面を守ることが得意である。
どんなにうつが酷くても、笑顔を作って仕事に行くことが出来る。昨日自傷で救急搬送されていようが、仕事には何としてでも行く。
人前で精神的不調をきたして涙が出ることなんてない。
高校生の時も一日の半分くらいを保健室で過ごしていたけれど、周りの友達は、明るくふざける私が精神的不調で保健室にいるとは思わないから、「遅刻王」「サボり魔」ということで通っていたし、自分でもそれで良いと思っていた。自傷痕を見られたくなかったから、着替えのある体育や水着を着る水泳は全て休んだけれど、「だるいから。」で通っていた。
長期入院をせざるを得なくなって初めて周りに自分の病気を開示するようになったけれど、それまでは自分が病んでいるなんて一番親しい友だちにも言っていなくて、病気のことを喋れるのはネット上の人だけだった。
隠してきた時間が長かったから、嘘も、愛想笑いも、心のスイッチを「無」に切り替えるのも、得意なのだ。
家に帰れば、真っ黒な感情と胸を押さえつけられるような感覚がどっと湧いてきて、些細なきっかけでフラッシュバックを起こす。
生活なんてできたもんじゃない。汚いけど、まず歯磨きとシャワーができない。ゴミ捨て、掃除、洗濯なんてできない。
酒を飲んで自傷をして、希死念慮を紛らわす。
そんな私にとって、強制的に「仕事ができない状況」「誰かにメールやLINEの返信をしなくて良い状況」「自分の感情をすごいエネルギーでコントロールしなくても良い状況」「生活を自ら行わなくて良い状況」がやってくる。
入院が決まるときは体面を崩す恐怖が大きすぎて反発するけれど、一度入ってしまえばその状況は私に大きな安心と解放感をもたらす。
退院して、社会の一員となったとき、その時の安心と解放感を切なく思い出す。
病院では、社会から「守られること」と自由を「侵されること」が同居している。
「守られること」と「侵されること」は、常に分かちがたく結びついている。
何も、病院だけではない。
家庭もそうである。
一般的な話をすれば、子は親に守られて育ち、同時に子であることの逸脱(例えば夜遊びなど)を罰せられる。子の位置情報を確認する親なんていうのもいるらしいけれど、その子は犯罪などから守られる代わりに、移動や遊びの自由を侵されているのである。
私はパートナーと二人暮らしをしている。
パートナーにとって、私の命は最も大切で、私の体に傷がつかないことも大事である。それはひとえに私を大事に思う心に由来する。
私が自傷したときの、パートナーの悲しみは大きい。涙を流されることもある。私はパートナーに傷つきを与えるばかりだ。
そう思って、「自傷しない約束」をした。
自傷しない人にはわからないかもしれないが、自傷しないことほどキツいことはない。「生きること」を要請されている時、生きることの辛さを解消する先が、自傷なのである。自傷で意識を飛ばし、自傷の痛みで心から目をそらす。自傷しないことは、辛さをひたすらに溜め込んでいく行為である。
「自傷しない約束」は、私を見える傷から守り、同時に私の見えない心を侵してしていく。
「守られること」だけを選び取ることなんて、できないのだ。
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