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社会は障害者の生きる証を奪っている

今回はこの本を通じて、重度知的障害者が次々と殺される事件を生み出した、排他的な社会の風潮について考えてみた。

犯人の思想について詳しく考察した記事はこちら。↓

被害者の匿名性、名を与えられない生

上記の記事で私は、この事件の特殊性が、被害者が匿名で報道されたことにある、と指摘した。
匿名で報道されたことには2つのプロセスがあった。
1つ目は「遺族が匿名で報道することを望んだこと」。
2つ目は「警察が遺族の要望を受け容れたこと」。
この2つの中にはどのような社会的背景や価値観があったのだろうか?

遺族の感情は「ただただ騒いでほしくない、ひっそりしていたい」という、どの事件にも共通するものだっただろう。
しかし、今回の事件にはそれ以上の気持ちがあったことも否めない。
遺族の言葉の例がこちら。

「この国には優生思想的な風潮が根強くありますし、全ての命は存在するだけで価値があるという事が当たり前ではないので、とても公表することは出来ません」
名前を出せば何か差別を受けるのではないか、誰かが家に押しかけてくるのではないか」
『障害者は不幸を作る』…社会にそう考える人はいるし、…社会を変えなくてはと思うより、社会はそうしたものだと受けとめています。」

これが現実である。
被告の考えは決して特別なものではない。「障害者は迷惑な存在だ」「障害者は何も生み出さないのだから要らない」という考えは蔓延して、障害者の家族を苦しめているのだ。
結果、親戚や近所の人にもその存在を隠さざるをえないような悲しい状況も生まれている。
そのようにして、一部の障害者は生きている証を奪われ、生が奪われたときさえその喪失が喪失として登録されないのだ。

もし仮に障害を持たない一般人が一夜にして19人殺され27人負傷していたら、世間の人々はその犯人の存在にひどく怯え何年たっても忘れることの出来ない事件になっただろう。
ところが今の世間はどうだろうか?
事件は急速に風化している。殺された人たちのことを「重度障害者だから殺されたのだ」と他人事に思ってすませた人があまりにも多いのだ。
一部の遺族の方は、亡くなった人の人生の歩みを伝え一人の人間として生きた証を伝えることで事件の風化を防ごう、と訴えている。

優生思想はこれからも広がり続けるのか

「優れた生が優先的に生き延びるべき」という優生思想。
ナチスによるユダヤ人・精神障害者の虐殺や、日本での障害者の強制不妊手術のもととなった恐ろしい思想である。

しかし、この思想につながるような考え方は、冒頭で紹介した私の記事でも詳しく述べたが、今の日本でも無意識にでも皆が持っていると感じている。
極端な話、会社において生産性のある人がどんどん昇進して認められていく、というのも類似している。

この本でも少し触れられていたが、優生思想が近年の出生前診断と結び付けられて語られることがある。
出生前診断とは簡単に言えば、事前に障害の有無を確認して、障害がありそうな場合には子供を堕ろすことも選択肢に入れる、というものである。

もし出生前診断が「障害のある子供が生まれてきたら大変だ、迷惑だから堕ろそう」という判断に基づいているのなら、これに賛成することは絶対できない。
これは子の生きる価値を親が客観的に判断する、という過ちを冒しているからである。
出生前診断は非常に悩ましい問題であるが、少なくとも、お腹にいる子が生まれてきた時いかに楽しく幸せにこれから生きることができるのか、障害を持って生まれてくる主観的な大変さをいかにサポートして幸せだと感じさせることができるのか、という視点に立って判断しなくてはいけないことだと私は思う。
生の価値は、他人が客観的に判断できるものではないのだ。

障害者を殺した被告を生み出した社会

しかし、本書で斎藤環さんが指摘しているように、現実の社会では生には判定可能な価値があるという思い込みがある。
その背景は、「社会に果たしている貢献度に応じて人の価値は決まる」ように見えるからだ。何か権利を得るためには同時にコミュニティから課される義務を果たす必要がある、権利だけを得るのはおかしい、という発想があるのだ。
現実社会で生きていると否定の難しい発想であるが、この発想に対抗するためには哲学者/社会学者のジュディス・バトラーを学ぶのが非常に有効なので別の記事に譲ろう。

さらに、被告がこの思想を自分の中で過激化させ実行にまで至ってしまった背景を理解するには、弱者蔑視を生み出す構造について考えなくてはいけない。
マイノリティ研究ではよく知られたことだが、「弱者は自分よりさらに弱者をおとしめる」という現象がある。そうすることで何とか自尊心を保つのだ。貧困層ほど生活保護受給者を叩く、という現象が例である。

被告は精神科での強制入院中に犯行を計画したようだ。それはすなわち、自分が「精神障害者」というレッテルを貼られ「社会から排除された」という意識をおそらく持ったということと無関係ではないだろう。
この自分自身に対する排除の感覚によって差別を強化してしまったのかもしれない

ではこれを防ぐためにはどうすればよかったのか。
本書で斎藤環は、どのような人間であっても社会の中に包摂するべきことを強調している。
私も、被告に対して、反抗前に強制入院ではない形で彼の考えと向き合い関わり続ける人がいてくれていたら、と考えてしまう。

人の性質はグラデーションである

さて、様々な人間をひっくるめて社会の中に包摂していく上で重要な前提の1つに「人の性質は二値的なものではなくグラデーションで表される」というものがあると、私は思う。

被告は『心失者(=意思疎通の取れない重度知的障害者)』とそうではない者との間をきっぱりと線引きして、「生きる価値のあるなし」を勝手に判断した。
しかし、そもそも「意思疎通のとれない人」と「意思疎通の取れる人」をはっきりと弁別することが可能なのだろうか?
私は「意思疎通」という観点についても、二値ではなくグラーデーションの性質だと感じるし、したがってその間を線引きすることは不可能だと信じている。

これは看護の立場からの視点であるが、看護師は時に「意思疎通が不可能」とされている人と細やかな交流をすることができるようだ。
下に挙げる本は、植物状態になった患者と身体の様子から細やかに感情や意思を汲み取り間主観的にコミュニケーションを取れることを示している。

そもそも意思疎通が取れるとは何なのか?
コミュニケーションが間主観的に成り立つことを考えれば、健常者の間でも意思疎通が取れないこともあれば、重度障害者と意思疎通を取ることも可能なのではないか。

もちろん重度障害者と意思疎通を取ろうと思えば、西村が語るようにケアする者は繊細な感性を密に働かせる必要があるだろう。そのようなケアをできるためには、ケアする者の教育や職場環境も関わってくるに違いない。

何にせよ、そのようにして立ち上がってくる、あらゆる人とあらゆる人との間の繊細で美しいコミュニケーションの可能性を、多くの人が認識する社会を作っていきたい
この社会には「強い者」と「弱い者」が存在するのではなく、「強い面と弱い面を両方もつ者」が存在するだけであり、全ての存在は「社会関係・環境に依存する」という点に置いてもろい(vulnerable)
障害者が殺された=人の持つ「弱い面」が抹殺された事は、誰にとっても決して他人事ではないのだ。

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