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「蚊帳の外」から見えたClubhouseー分断の壁は深いー

はじめに言っておく。私は、Androidユーザーだ。
Androidである私が、Clubhouseについて何かしら論じるのはお門違いとも思うのかもしれない。

そうは言ってもこれだけ話題にも昇っているSNSだから、何か私が感じていてもいいはずだし、それを言語化することもきっと悪いことではないはずだ。

そもそも、Clubhouseとは何だったのか。

Clubhouseは、2020年4月にアメリカで生まれた「招待制」SNSだ。
日本では、1月23日にiOS版でリリースになったばかりであり、開始1ヶ月ほどで無料アプリ1位をはじめ爆発的なヒットを見せている。

音声や会話中心のアプリケーションとして、これまでの動画配信アプリやツイキャス・ラジオ配信と異なるのは、roomに自分で参加したあとに「会話」によって発言することができるということだろう。

youtube配信やツイキャスではテキストベースでのリアクションが可能だ。もちろんそれは、相手の会話を執拗に遮らないという点では有効な手段とも言えるが、視聴者は純粋なリアクションを一度文字として可視化させる必要があった。
文字入力だとどうしてもリアルタイムと言っても数秒のラグ(呼んでもらう時間と書く時間)が生じるのに対し、Clubhouseでは、モデレーターさえ許可すれば、肉声による発言を「挙手」することで始めることができる。まさに生の声だ。

可能性としては無限大だった。
著名人のルームでも、許可されれば発言することだってできるかもしれない。あるいは文字化されない「ここだけの話」を聞き、同じ時間を共有することができる。
もちろんLINE通話に近い狭いコミュニティ内で友人たちとのみ会話をしている事例もあるという。

著名人の参加や、話題性によって大きく広まったSNSではあるものの、やはり新型コロナ禍によるコミュニケーション欲も一つのきっかけだったと言えるだろう。

閉鎖性によってうまれたクラハラは「キメハラ」に近い

「なぜClubhouseが流行したのか」ということについて少し触れたが、これまでも多くの分析が出ているだろう。その中で、最も知られているのはその「閉鎖性」だ。

なお、知られていないかもしれないが、現在のClubhouseアプリはベータ版であり、いずれ公開版がリリースされることになっている。

https://www.cnet.com/news/elon-musk-mark-zuckerberg-use-clubhouse-what-to-know-about-the-exclusive-service/

そうは言っても、招待枠の限られたSNSということが、話題を集めるきっかけとなった。
これにより、「早く始めたかどうか」で流行への到達度に指標になってしまうかもしれないし、それ以上に人脈の幅広さを誇示する結果になったとも言える。

あるいは、いつまで経っても招待してもらえず、その輪に入ることのできない人間だっていることだろう。
その最たる例が、Androidユーザーだ。まさに蚊帳の外にいる。
InstagramのストーリーやTwitterに「Clubhouseはじめました!」と報告があったところで、自分は参加する権利どころか、参加する能力を持たない。
そのためだけにApple製品を買うのか?それはあまりに馬鹿げているともいえるだろう。

しかし、この「Clubhouseまだ始めていない」に対してある種のハラスメントがあるだろう。特に若者の間ではSNSの交流は必須だ。その一種のハラスメントはこれまで多くの分断を生んできた。

最近では、「キメハラ」がその一つだ。

爆発的にヒットした鬼滅の刃に、多くの人は熱狂した。事実、私も映画館に複数回足を運んだし、Amazon Primeで何周もした。
しかし、その裏で「鬼滅の刃まだ見てないの?あんなに面白いのに?面白いと思わないの?」という声に疲弊した人もいるだろう。

「鬼滅の刃のココが面白い!あ、でも見てないよね?じゃあわからないか」
その強制力と義務感は一種の分断を生んでいる。

それに近いことが、スマホを中心とした流行への到達という点で起きている。年代がバレてしまうかもしれないが、少なくとも私はこれまで下記のようなの「まだ✕✕やっていないの?」というフレーズを見かけてきた。

・ガラケーの所持
・携帯小説の購読経験
・スマートフォンの所持
・前略プロフやMixiへの参加
・iPhoneが王道という価値観の押し付け
・LINE
・SNS(Twitter,Instagram)

お金を用いなければ解決しなければならない手段は残酷だ。小学生の頃は、その日のテレビ番組やドラマを視聴すればよかった。見れないなら録画しておけばよかった。
鬼滅の刃は、今見直すならばサブスクが必須だろう。いずれにしても、それが「合う合わない」が分からなくとも、一種の義務感を持って何かに取り組むのは少し虚しい。

「Clubhouse私は一度もやったことがない」というものをストレスに感じてしまう人がいるのなら、それはとても痛ましいことのように思う。
これをかまいたちの『トトロ一度も見たこと無い』ネタのように面白おかしく持っていけるようであればもっと世界は少しだけ温かくなるのかもしれない。

閉鎖性と分断。クローズドな空間にオープンの価値観はNG

閉鎖性は分断を生む。
ちょっとした選民思想による分断ももちろんだが、招待制によって起こったのはもちろんそれだけではない。AndroidとiPhone、リアルタイムとアーカイブといった分断以前に、その会話の内容自体に「閉鎖性」が生まれている。

クローズドの空間であるからこそ、Clubhouseでは「ルーム」内での会話は録音・書き起こし・メモが禁止されている。最近では藤田ニコル氏による苦言が話題になった。閉鎖性があるからこそ、会話には密度を生まれる。

それが逆の意味で働くのはClubhouse内でのディスカッションの場ではないだろうか。

先日、たかまつなな氏がnoteにこのような記事をあげた。

招待制の中で限定されたトピックを討論しているのだから、その中に入室したメンバーの思考・思想の密度は偏ったものになる。
会話の傍聴者が議論をする場としてはTwitterやInstagramしか残されていないのであるから、Twitter上では断片的な情報が横行してしまう。そのClubhouseのトークルーム内での温度感は伝わらずとも、憶測や発言に対する個人の印象だけが出回ってしまうのだ。

Youtubeの配信やTwitterでの発信は、公開されたアカウントであれば誰もが目にすることができる。しかし、Clubhouse内の会話は参加者のみのものである。ある意味、参加者の受け取り方次第であり、伝聞がメインになってしまう。その結果、リアルタイムの生の声だったものが、Twitter上で誰かに情報を媒介されることによって、誤解が誤解を生んでしまうことにはならないのだろうか。

そもそも、Twitterやnoteに何か意見を書くならば、不特定多数に発見され、さまざまなリアクションをもらうことになる。対するClubhouseは、あくまでもクローズドな空間であり、そこにあった情報のやり取りは、参加者のみのものである。

その結果、たかまつ氏のように、参加者によって糾弾されればそれは大きな批判であるかのように感じてしまうかもしれない。
もちろん不特定多数からの糾弾ほど恐ろしいものはないが、「そのトピックを理解しているメンバー」が味方になってくれていない状況というのも、分断を助長しているように思う。

Clubhouseは好きなものを好きな人と繋がれるツールであるはずだっただろう。まだ黎明期だからこそ、使い方は定着していないこともあるだろう。
Androidユーザーが参加できるようになる頃には、ある程度落ち着いていることを祈る。



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