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あまりに下世話な趣味

twitterにはハッシュタグという機能がある。

書いた本人がつぶやきにあらかじめタグ付けをすることにより、同種の人々とつながることができ、連帯することができ、最大の利点は検索が容易になる、という点にある。

この利便性によって生まれた政治運動もあれば、詐欺もあるだろう。

ここからは私のどうしようもない趣味の話である。

私が時間を持て余しているときに検索してしまうハッシュタグは、#旦那死ね、#クソ客のいる生活、#パパ活である。

特に、#パパ活、あるいは#パパ活女子というハッシュタグを使っている人のツイートを遡って読んでいくのは面白い。結局のところ、売春日記なのである。

あるいは、「#パパ活をしたい女性の方、気軽にDMください」なんて、ツイートしている人のツイートなんて、結局のところ、買春掲示板なのである。

そして、今も昔も、売春をせざるを得ない女性たちは、経済的な問題を抱えており、苦痛に耐えている。

今も昔も、日本の売春と買春をポップ化しようという試みは醜悪だと思う。

新たな言葉を使うことで、犯罪感と罪悪感を希釈しようとしているとしか思えない。くだらないマーケティングに見える。

古びたものに名づけをすることで新たな価値を生むなどと宣わるのは、クソなコンサルがやることだ。

JC、JK、JDという言葉を一般的な言葉であるかのように使う人たちが嫌いだし、もし由来を知らずに使っているのだとしたら、その無知さ加減におののく。

90年代の援助交際という言葉が忌避されるようになったのは、言葉の耐用年数を過ぎたのと、もう一つは「ただの売春(買春)でしょう?」というツッコミが多数入ったことにより、双方使えなくなってしまったという事情があると推察している。

「わたし、パパ活してるんだよね」とは言えても、

「わたし、売春しているだよね」とは、言えないわけである。

アメリカの女子大生には、シュガーダディがいたりするわけだが、同じ売買春であっても、中長期的に学費と生活の面倒を見てくれる分、まだ文化的であるし、投資額も多い。

人間は動物だから、欲望があるのは当然なのだが、生きるために己の身体を引きかえにして金銭を得るのは、なるべく避けられる社会であってほしい。

もちろん、愛し合っているように見えるカップル(夫婦)も、単に経済的に結びついているだけ、というパターンも決して少なくない。

両親からの小遣いが潤沢にある、あるいは限度額なしのクレジットカードを持った若い男子大学生の横には、女がいる。金があれば女に不自由しない、というのも、残酷な真実である。(金のある男子学生なんてのは、自由で暇で仕方がない、という側面もある)

お金をちらつかせれば、くっついてくる女がいるのも、また事実である。

私の頬を札束でひっぱたこうとした男の中には、若いのもいれば、中年もいた。

不倫相手が生活の面倒を見てくれている、という友人とは、口論になってしまい、縁が切れてしまった。それは不倫ではなく、売春ではないか、と当時の私は思った。しかし、今は自分のその不寛容さを恥じてもいる。

お金から自由になるためには、一般の人々は働くしかない。

もちろん、パパ活だって、単なる労働だと言われれば、そのとおりである。自分の身体は、自由に使ってよい。自己決定権は尊重されるべきである。

しかし、しかし、だったら、セックスを売っている、セックスを買っている、とはっきりと言えばいい。

パパ活なんて言葉でまぶさないとできないような行為は、やらないほうがいい。

#パパ活のツイートを統計的に分析すると、いろいろなことがわかると思う。(すでにもう誰かやっているかもしれない)

「大人どうですか」なんて、まじで馬鹿なんじゃないかと思う。

ただ、私が売春せずに生きてこられたのは、単なる偶然に過ぎないとも思う。

あのタイミングは危なかったのではないか、という時期や瞬間はなくはないのだ。

そして、映画『ブックスマート』の秀才女子も「わたしたちは下半身に支配され、生きているのよね」と言っていたことを思い出す。

村上龍の『ラブ&ポップ』では、欲しいものが明日には欲しくなくなってしまうかもしれない、という物欲消失に対する恐れと援助交際が描かれていたが、その当時から古臭いという批評がちらほらあった。

物欲と性衝動とともに、生きるということが、人間の本質なのだろうか。

それとも、資本主義からの要請に、律儀に真摯に応えてしまうホモサピエンスの悲劇なのだろうか。

「お金ないから、プログラミングの勉強でもするか」という社会であってほしいと思う。

ただ、パパ活をしている人々に、私の言葉なんて、まったく響かず、意味を持たないこともわかっている。

部外者が覗き見をして、説教を垂れてくるなんて、ノーサンキューというものだろう。

生活が厳しい人に対して、それはあまりに無責任というものである。

安全なところから、ヤジを飛ばし、批評をしているだけでなのだから、「同情するなら金をくれ」と叱られてもしかたがない。

私は私のなかにある「正しさ」を常に疑う必要がある。

しかし、人生の中で、決して交わらない、街ですれ違い、電車で隣り合う誰かの人生を検索するだけで、見ることのできるSNSは、とんでもない発明で、その膨大な情報は、私の生活を確実に蝕んでいる。

すべきことはたくさんあるのに、検索して、次から次へと、目から脳味噌へ情報がなだれこむ。

私の脳疲労は、極限まできているわけである。

ワイドショーやルポルタージュより、市井の人々の生々しい声は、刺激的で癖になる。(ライターや作家などお呼びでないのだ)

SNSに耽溺しても、脳の中がごちゃごちゃして、頭と目が、極度に疲れるだけなのだ。

もう、どうにかして、スマホ依存から脱したいと思う。

人生は短いんだから。




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