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【白猫イネスの日々】2話:涙の理由を教えてよ

 ある日、イネスが泣いていた。
 猫は人間のようにかなしい気持ちを浄化させるために泣く、なんていう水分の無駄遣いをしない。涙が出るのはあくまでも目に入ったゴミを洗い流すためである。猫とはロマンではなく実用のために泣く現実的な生き物なのだ。そのため泣いていようが大事とは思わず、「あら、目に何か入ったの?かわいそうに」なんて悠長な気持ちで彼女のことを眺めていた。
 しかし、次の日もイネスが泣いている。それも左目からだけ器用にぽろっと涙がこぼれ落ちる。けれどもこの時もまだ私はのほほんと構えており、「あら、今日もかなしいことがあったのね」なんて子どものたわいもない悪戯を見たかのようなほほ笑ましい気持ちで彼女を見つめていた。
 そして3日目、とうとう目が開かなくなった。目の周りの毛は涙で濡れてみすぼらしくなり、目元にはじとじととした目脂がたくさんついている。その上目の周りがうっすらと赤く炎症しており、ようやく「これはただごとではない」と気がついて、獣医さんに連れて行くことにした。
 診断の結果は結膜炎だった。細菌などが原因で白目の表面や瞼の裏側の粘膜が炎症を起こすことがあるのだという。治療法は抗炎症成分やらが入った2種類の目薬で、獣医さんには「1日に3回打ってください」と言われた。
 言われたときはとにかく「はやく治るといいね」と不幸に見舞われた我が猫を心配する気持ちでいっぱいだったものだから、いかにこれが難しいかに気がつかなかった。そして2本の目薬を各1日3回、つまり1日6回も猫に打つなんて無理なのではないかと、家に帰って来てから気づいて愕然としたのだった。
 猫を飼っている方ならおわかりいただけるであろうが、キャリーケースに入れたりお風呂に入れたりなど、猫にとってストレスになる行動を取れば当然彼らも抵抗を試みる。人間だって他人に目薬をさされそうになったらたとえ理由がわかっていようが体をこわばらせ、警戒するだろう。では理由がわかっていなかったら……。突然他人に体を押さえられ、目に液体を入れられるなんてまるで拷問である。けれども私は言葉が通じない猫なんていう生き物に目薬をささなくてはならない。それも1日に6回も。
 失敗を恐れた私は投薬に向け、頭の中でさまざまなイメージを作り上げた。まずは彼女の動きを封じる必要がある。動きを封じるといえば抱っこだが、抱っこをしてしまっては両手がふさがり目薬をさすことができない。では私が体で覆うように床にいる彼女にかぶさり、後退を防ぎながらさすのはどうだろう。一番現実的な気がして、この方法を採用することにした。
 さて、覆いかぶさるところまではよかった。いつも通り私にかわいがってもらえると思った彼女は喉も鳴らさんばかりのご機嫌である。私も彼女の額に顎を乗せるようにして体を徐々に固定しつつ、顎の下などなでて警戒心をほどいていった。
 けれどもいよいよ目元に目薬の容器を持っていった途端、疑いの色が一気に顔に浮かび、目薬に目の焦点を合わせようと顔をぐいぐい引いてゆく。やがて逃げの姿勢。あっちこっちに首を回し、その力があまりに強いものだからこのまま押さえつけていては今度は首を痛めかねないと、私は体を離した。
 どうしよう……。どうしようもなくないか……。このまま攻防をつづけていては結膜炎よりも重大な怪我をお互いに及ぼしそうである。
 けれども何度やっても不可能に近かったので、目の中に入らず目の周りに液体が落ちる程度でもささないよりはマシ、と割り切ることにした。
 そんな目薬をさしているのかいないのかわからない治療をつづけること2〜3週間。目薬が効いたのかは定かではないが、段々と腫れはおさまっていった。
 しかしまたある日、私は衝撃的な情景を目の当たりにすることになる。

 イネスはキッチンが好きだ。そのためよく薄暗いキッチンの床でうずくまっている。その日も家に帰りキッチンに行くと、イネスがキッチンマットの上で香箱座りしているのが見えた。「あら、かわいい」なんて思いなでてあげようと近づくと、どうも顔立ちがおかしい。見間違えであって欲しいと願ったが、願いは虚しくそこにあったのは厳しい現実であった。
 今度は右目が腫れている。
 嘘だろうと思った。
 こんなことがあるだろうか。ジーザス! 無宗教なくせに思わず叫びそうになったけれど、もちろん叫ぶほど頭がおかしくなってはいない。
 この頃イネスは私が目薬を手に持っているだけで逃げ出すようになっていた。
 捕まえようにもすばしっこく、捕まえたところで、またうまく目薬をさすこともできない。
 途方に暮れた私は自然治癒を目指すことにし、目やにがひどい時に拭いてあげるくらいで目薬をさすのを辞めてしまった。
 それから1週間ほどしたら自然に目の周りの赤みは消えていった。左目につづき右目まで結膜炎になったものだから次は両目がなるのではないかという不安に駆られたが、取り越し苦労で、ようやく無事に完治した。
 目は治ったものの、我が家のテーブルの端には、使いきれなかった1本2000円もする高級猫目薬が置かれている。そして一体誰がこれをさせるのだろうと、未だに私は不思議に思わずにはいられない。

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