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愛ってのは、まったく。

中学生の頃、家出をしたことがある。

小学生の頃から、再婚した両親の喧嘩が絶えず、3階建ての家の中で1階が継父、2階が母とまだ幼い弟、3階が私で過ごすことが多かった。家族が同じ屋根の下で別々に過ごすことで平和が保たれる。一聞するとなんだか悲しい家族みたいなんだけど、そういうわけでもなく、それぞれ個性の強い家族だったので、各自やりたいことをやって過ごしている「自由なヘンテコ家族」という方がしっくりくる。個性強め、頑固で自由を好むヘンテコ家族はご飯を食べる時以外、別々に過ごしているルームシェアのような家庭だった。

大抵の場合、継父が1階から2階に上がってくる階段の足音で家中の空気がピリッと張り詰める。頑固で「昭和」を煮詰めたような価値観の継父は、いく先々でいつも喧嘩の種を植えていく。母と会話を始める声が階下から聞こえれば気が気じゃない。喧嘩になれば、私が夫婦喧嘩の仲裁をしなくてはならなかったから。これが本当に面倒くさい。両親の不穏な空気を察して、不安そうにしている弟を寝室に連れいていき、それがまるで“何事もなかったかのように”少しだけトミカで遊ぶ。落ち着いたら2階に降りて、喧嘩の仲裁の続き。この時も深刻そうな感じではなく、両親の喧嘩が“さほど大したことではない”かのように、軽めの声色で仲裁する。家中に蔓延するシリアスな空気を少しでも変えないと、家ごと崩れて無くなりそうなくらい重たい雰囲気だったから。誰が悪くて、どうすれば喧嘩にならないか。どちらが悪いでもないのではないか?とああでもない、こうでもないと一生懸命考え、両親に提言した。あくまで軽いテンションで。そして、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」よろしく、悲劇を喜劇のようなパフォーマンスで乗り越える術(もちろん歴史的事実のあれとこれを一緒にするつもりはない)を覚えた。大人になってこれがどんなに役立つか、この時の私はまだ知らない。(笑)

「ライフ・イズ・ビューティフル」はイタリアの俳優ロベルト・ベニーニが監督・脚本・主演を務め、強制収容所に送られたユダヤ人の父親が幼い息子を守るため意外な行動に出る姿を描いた感動作。

一触即発、いつでもかかってこい状態の母と、火に油を注ぐような発言を意地悪く投げ続ける継父と、その間で仲裁する私。(笑)これが私の日常。答えの出ない喧嘩を繰り返す両親の精神的な負担は計り知れなかったけれど、夫婦関係が壊れるより先に、私の方がぶっ壊れた。

何が原因だったかは今となっては覚えていない。私は突如、家を出た。まずは当時付き合っていた彼氏の家へ。彼のご両親はとても理解のある人で、いつまで経っても帰らない私に「家に帰らないの?」と問い詰めることもなく、ただ黙って受け入れてくれた。(今思えば彼氏が事情を伝えてくれていたんだろうけれど)
家出中も学校には行った。学校を休んで、家に連絡でもされたら警察沙汰になる。それは避けたいので、なんとか学校だけはいった。

数日経たないうちに、彼の家に両親が来た。「うちの娘、来てませんか?」と玄関先から母の声が聞こえる。少しイラついたような、不安に怒りが滲んだような声だった。

「いませんよ。息子に聞いて、何かわかったらご連絡します。」

彼のお父さんの声。予想外過ぎた。ほとんど話したこともない。挨拶程度の会話しかしたことないのに。自分の家に息子の彼女が諸事情で何泊もしていることは認識していたはずで、どんな子かもわからない家出少女を”息子の彼女”という理由だけで匿ってくれた。まさに「愛」だと思った。それは私に向けられたものというより、息子への愛情だとわかった。どんな事情にせよ、息子が大事に思う子なら守ってあげよう。そう思ってくれたんだと瞬時に理解した。そして、それと同時に「人に迷惑をかけている」と思った。なんの罪もない人に嘘をつかせてしまった。うちの家族のゴタゴタに巻き込んでしまった。玄関先でやり取りをする彼と私の両親の声を聞きながら「これ以上ここにいちゃいけない」と思った。

だがしかし、私はそこで家に帰るようなタマではなく。(笑)頑固で自由を好むヘンテコ家族のもとで育った私は翌日彼の家を出て、実父の母、祖母の家を尋ねることに。

私の祖母もまた変わり者だった。マリリンモンローのようなカーリーショートの銀髪に赤いネイル、赤いリップ。どこに行くにもばっちりキメる美しい人だった。子供である私に対しても大人に接するように会話する人で、子供相手に赤ちゃん言葉を使ってみたり、ヨシヨシとスキンシップを多用することもない。常に飄々としていて、私にとってはとても居心地の良い人だった。

私が生まれてすぐの頃。祖母と私。

実父と母が離婚した後も、祖母はそれまでと変わらず家を尋ねてきたり、継父のいる私の家に電話をかけてきては、母と何時間もおしゃべり。「離婚したってあなた(私の母)は娘よ」と言わんばかりに、態度を変えずブレない人だった。
離婚してしばらく経って実父が再婚した時、祖母と実父は二世帯で暮らすようになった。それでも変わらず遊びにいらっしゃいと祖母は私を受け入れてくれた。

「今度、弟も連れてらっしゃいよ。」

と、離婚した元嫁の再婚相手の息子である私の弟も、分け隔てなく可愛がった。父の再婚相手はどう思うか?なんてことは実父も祖母も全く考えていないかのように今までと変わらない様子だった。とはいえ、やはり父の再婚相手が子供(私の異母兄弟)を産んでから、私の存在は「説明が難しい人」になってしまい、私も少し祖母の家から足が遠のいていた。

「そんなの気にすることない。あの人(父の再婚相手)も全部わかって結婚しているのだから、堂々としてなさい。メグミもあの子(異母兄弟)も同じ、パパの娘。人の言うことなんて気にしないのよ。」

祖母の家に行きづらくなった理由を打ち明けた日、そう言われた。だからと言って、家出先に祖母の家を選ぶのはどうかしていたと思うけど、当時の私にはそこしかないと思った。

これもまた不思議で。突然家出してきた私を祖母は何も言わずに受け入れた。彼のご両親と同じように理由を問い詰めることもなく、学校を終え、荷物を抱えてやってきた私に、

「あら急ね、大したご飯ないのよ。なんでもいいわね?」

と、せっせと夕食の準備を始めるだけだった。
お風呂に入って、眠る準備をしているとシルクキャップをつけた祖母が私の枕元にやってきて「何日いても良いけど、ママにだけは連絡しなさい。おばあちゃまのところにいるって。」そう言われた。
翌日になって、電話を渋っている私を見かねた祖母が、母に連絡してくれた。
後から聞いた話では連日連夜、母は泣きながら私を捜索していたらしい。警察に届けなかった理由は絶対に友人か彼のところにいるとわかっていたから。私の友人や彼がみんな私のことを匿っているのはわかっていて、彼らに対して怒りを覚えつつも、素晴らしい友人や恋人を持った娘が誇らしかった、と複雑な心境だったらしい。(さすがに離婚した元夫の母である祖母の家にいたのがわかった時は仰天したらしい)

それから数日、祖母の家から学校に通う生活が続いた。その間も、祖母は私に何も聞かなかった。私が家族の愚痴を話している時でさえ、江戸切子の小さなグラスに入れたビールをちびちび飲みながら、同調することもなく、否定することもなくただ飄々と「それは大変ねぇ」「弟も連れてくれば」と冗談めいて返すだけだった。本当はきっといろんなことを考えただろうし、本当は私の継父に対して略奪して再婚したくせになんなんだ!と怒りを覚えていたかもしれない。それでも、継父の悪口を言うでも、探りを入れてくるでもなく、顔色ひとつかえず、私の声に耳を傾け“さほど大したことではない”かのように過ごしてくれた。途中、父の再婚相手が二世帯の上の階から祖母の家に降りてきて、私の存在に驚いても「何か?」と言わんばかりに堂々としていた。私が「お邪魔してます」と言うと、後で「あなたも家族なんだから、堂々としてなさい」と少し怒られた。

そんな日々を過ごしているうちに、私のぶっ壊れた心は自然と元に戻っていった。家出なんてしちゃったけど、ほんとは大したことじゃなかったのかも。大袈裟なことしちゃったな。ママきっと心配しているよな。弟、元気かな。会いたいな。いろんな想いが込み上げてきて(まさにホームシック)、家に帰ろうと決心する。

「おばあちゃま、明日は家に帰ろうと思う」

最後の夜、祖母にそう告げると「あら、そう。もう気が済んだのね。」と飄々とした返事が返ってきた。あの時、祖母はどう思っていたんだろう。今となっては全然わからないけれど、祖母の寝室から遅くまで電話する声が聞こえていたのだけは覚えている。きっと、母と話していたはず。「明日帰るって言ってるわよ」「ご迷惑かけてすみません」そんな会話をしていたのだろうか。
きっと祖母はその時も、母に説教するでもなく、子育てのアドバイスをするでもなく、他愛もない話をして母の心を落ち着けてくれていたのかもしれない。

今思えば、家出中、祖母が私の境遇を一緒に悲しんだりしたら、私はきっともっと自分の境遇を惨めに思ったかもしれない。「私は可哀想な子」と自分で決めつけて、もっともっと深い闇に堕ちていったかもしれない。そうならずに済んだのは、祖母が私への愛情だけで、ブレずにいてくれたからだと今になって思う。
家出をした数日間で、私はいろんな人の愛の形を知った。
もちろん、自分の母の愛もしっかり感じたし、違う家族の愛も垣間見た。そして、祖母の「ブレない愛」は私の人格をしっかり育ててくれた。

大人になるにつれて、自分の幼少期に失ったあれこれを思い出すことが増えた。今の家族の境遇も決して納得のいくものではない。それでも、私には確かに「愛」を注いでくれた人たちがいた。その愛をしっかり感じて育った。私の行く先を阻害せず、好きなようにさせてくれ、自分で考え行動する姿を尊重してくれる愛。

そんな愛が「自分の選択が間違っていない」と思える“人生を選ぶ力”を与えてくれた。

愛情たっぷり、安全で平穏な暮らしを守る愛。子供が子供らしく育っていけるように全力でサポートする愛。家族全員仲良く、何代にも渡って家族を守っていく愛。きっとそれが教科書に載るような理想の愛の形なのだろうと思う。私はそのどれも知らない。時たま、そんな自分に嫌気がさす時もあるけれど、実際のところそんなキラキラした愛を目の当たりにしたら、私は奥歯が浮いて落ち着かないかもしれない。(笑)

私にとって居心地がいいのは、祖母が私に遺してくれた、どんな時も、どんな境遇でも、人に何か言われても気にしない、堂々と愛する愛。ブレない愛。見守る愛。この歳になってやっとわかった気がする。今こそ、祖母に会ってこんな話をしてみたい。祖母はなんて言うだろうか。きっと冗談めいて返してくるだけで、本心には辿り着けない気がする。それか、一丁前に大人になった私にやっと本心を傾けてくれたかもしれない。

いずれにせよ、祖母との時間はどれも私にとって、かけがえのないものだった。
一方的にもらうだけの愛。私は返せていたんだろうか。

いつか私もそんなふうに誰かを愛する日が来るんだろうか。堂々と、ブレない愛。もうすでにそんな愛に出会っている気もするけれど、祖母のそれとはまた違う気もする。
愛は目に見えないのに、確かにそこにあるもの。
受け取る側も与える側もその最中ではそれがどの程度のものなのか分からない。
愛ってのは、まったくもって難しい。

祖母と最後に交わした会話を思い出す。痴呆症と乳がんを併発していた祖母が、私を誰かと勘違いしていて、病院から脱出するための作戦会議をしたのが最後だった。私なりに、祖母のしたいことを尊重したいと純粋に思ったからこその行動だった。家出した私を受け入れてくれた祖母と、少しでも同じように。(これもまた印象深い話なので、後日のnoteにとっておく)

でも、最後てわかってたらもっと話すべきことあったよね。「あの時はありがとう」とか。「大好きだよ」とか。もっとあったよね?
なんで最後の会話が「病院脱出計画」なの?(笑)
それが私と祖母らしい愛のカタチだったとも言えるか。。

ああ、愛ってのは、まったく。

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