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今日も、読書。 |言語は、愛だ

黒田龍之助|ポケットに外国語を

ちくま文庫から出ている『ポケットに外国語を』という作品は、外国語を学ぶことの楽しさが、純粋に凝縮されたエッセイだ。

凝縮されすぎて、人によっては、少し濃すぎるくらいかもしれない。しかし、著者の言語学習への愛が、ひしひしと伝わってきて嬉しくなる。


世界に通用するために外国語を勉強しなければ! そんな気持ちを脱力させて、言葉本来の面白さを感じ取りたい。古本屋で知らない外国語のテキストを買ってみたり、時には現地にいってみたりとあちこち思考をめぐらした結果がこのエッセイに詰まっている。しかも、外国語をもっと勉強したい人へ向けたアドバイスとして読める。文庫化に際して未収録作品多数!

あらすじ


外国語、代表的なもので言えば英語に、苦手意識を感じている人は多い。かくいう私もそうである。一応外国語大学に通っていたのだが、その苦手意識は、在学中常に付き纏っていた。

その理由のひとつには、あらすじにもあるように、「世界に通用するために外国語を勉強しなければ」と、肩に力が入りすぎているところがあると思う。ちゃんと、完璧に英語をマスターしなければと、必要以上に自分を追い詰める。その結果、勉強に面白みを見出せなくなり、英語を好きでなくなってしまう。

そもそも、言語を「マスターする」とはどういうことなのだろう。私たちは、日本語を「マスター」していると言えるのだろうか。

全員が全員、一様に「世界に通用するため」の英語を学ぶ必要があるのか。学ぶべき英語のレベルや種類は、人によって異なるはずだ。全員が同じ場所を目指す必要はない。


著者の黒田龍之助さんは、上智大学外国語学部ロシア語学科卒。東京工業大学助教授(ロシア語)、明治大学助教授(英語)を歴任してきた、バリバリの言語の専門家だ。しかし、構える必要は全く無い。黒田先生のエッセイは、言語学習の素養がまだない人でも平易に理解でき、非常に面白く読める。

本作を読んでいると、考えてみれば当たり前のことなのだが、世界には様々な言語があるのだということに気付かされる。黒田先生は、ご専門のロシア語や英語のみに留まらず、フランス語やスウェーデン語、リトアニア語、ベラルーシ語など、あらゆる外国語に関心を持ち、参考書や辞書を買い、現地を訪れてスクールに通う。

メジャーかマイナかは関係なく、情熱の赴くまま、外国語を学び続ける日々を送る。普段日本語に囲まれた生活をしている私にとって、多様な言語に満ちた黒田先生の生活は、とても眩しく感じられた。


好きなことをとことん突き詰めた人の話は、非常に面白い。

「フランス語のカセットテープ」というエッセイがあり、ここでは黒田先生が初めて外国語に触れた体験談が語られているのだが、この人はよっぽど言語が好きなのだな、と顔が綻んでしまう。好きを突き詰めた「オタク」は、誰にも勝る、唯一無二の強みを持っている。私も、こんなオタクになりたいと思う。

英語は簡単に身につくものではない。英語専攻の学生たちが長い時間をかけて勉強して、ようやく習得していくものだ。政治や経済、化学、物理、数学など、他の専攻と同じである。

にもかかわらず、必修科目で英語を学ぶ他専攻の学生たちは、英語くらい身につけておかないと、と気楽に言う。外国語学習はもっと難しいもので、一朝一夕にはできないものなのだと、著者は主張する。多くの人が考えているように安易に身につくものではなく、言語の勉強に、近道はないのだ。



少しばかり、自分語りをする。

私は大学で、イタリア語を専攻していた。一応、言語学徒のはしくれだった。大学を卒業して早2年、今や覚えているイタリア語はGrazie(ありがとう)くらいだ。悲しいことである。

わたしの外国語学習は気まぐれである。場所はベッドか電車の中で、辞書はもちろん、ノートを開いて勤勉に単語帳を作るようなことはしない。気に入った挿絵を眺めたり、スウェーデン語の文章の意味を考えたり、そんなことをいつまでも続けている。

p29より引用

当時大学生だった私は、「イタリア語がうまくならなければ」と焦るばかりで、イタリア語の学習を楽しもうとしていなかった。理想と現実のギャップに絶望し、半ば勉強を諦めていた。当時、黒田先生のエッセイに出会えていれば、もっと伸び伸びイタリア語に触れていればと、後悔している。


ことば無くして文化の理解はありえない。英語だけでは見えないことがたくさんある。日本語のできない人の日本文化論なんて、あなたは信用できるだろうか。言語は単なる手段以上の力を秘めているのである。そして喜びも。

p39より引用

これは、私が大学でイタリア語を学んでいて、最も良かったと思えたことかもしれない。言語としてのイタリア語を学ぶうちに、イタリアの文化や社会のことが、少しずつわかってくる。扉をひとつひとつ開いていく感覚がある。

イタリア人と話すとき、英語ではなくイタリア語でコミュニケーションを取る方が、より彼らを理解することができる。心と心の距離が、ぐっと近くなる。

言語を学ぶことはすなわち、世界に友人を増やすこと。その言語を通じてしか伝えられないニュアンスを、届けられない感情を、あなたに近づきたいという誠意を、伝える術を身につけることだ。


黒田先生は本書の中で、ご専門のキリル文字への誤解について、強い口調でお話しされている。キリル文字への愛ゆえに、ここだけ口調が荒ぶっているところが面白い。

頼まれたわけではないが、黒田先生の世間の誤解を解きたいという願いを汲み、最後にここに引用する。

キリル文字は世間で誤解されている。まずЯやИといった文字があまりにも印象的なため、「文字がヨーロッパからロシアに伝わる途中でひっくり返ったのだ」という俗説があるが、完全な誤りだし、面白くもない。これ以上吹聴するのはやめてほしい。またキリル文字はキリルという人が作ったというのも間違い。これは学術書にまで記述されている誤りで、本当に困る。

p70より引用



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