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今日も、読書。 |文章を書くことは、辛くて、でも楽しい

2022.2.6 Sun

破戒:139ページ
在宅環境を整えようと、ようやくワイドモニターを購入。

LGの4Kスタンダード液晶モニター、27インチ。決して安くはない買い物だったが、長く使うものには、妥協することなく投資していきたい。

今まで使っていたラップトップは画面が小さく、目にも、姿勢にも良くなかった。在宅勤務が中心の今、家のラップトップで仕事をする時間は、生活の半分近くを占めている。僅か4万円ほどの投資で、この時間をまるっと快適にすることができるなら、むしろ安いくらいだ。

今年の目標として、製本をする、ということを掲げていた。本というものが、どのような工程を経て作られているのか、自らの手でその実感を掴みたかった。自分の物差しで、普段手にしている本がどういうものなのか、測れるようになるのではないかと思った。

手始めに、YouTubeで製本関係の動画を漁っている。世の中には、DIYで本を作る人がこんなにもいるのだ、と心強くなる。できる限り安く、手軽に、それでいて質の高い本を作りたい。

本を作るうえで、最も重要なのは、やはり文章だ。これが無ければ、いくら上手に製本ができたとしても、本は完成しない。

文章でなくてもいい。写真やイラストでも良いのだが、とにかく紙に印刷する、何らかの創作が必要だ。

私は自分の創造力についてとうの昔に諦めていて、小説やエッセイなど、まとまりのある文章を書けないことを知っている。この読書日記を日々執筆しているのは、そんな事実への細やかな抵抗だ。いつかこの読書日記を下地にして、雑文集のようなものが作れたら、と、そんな想像を膨らませている。



2022.2.7 Mon

199日目。
破戒:139ページ
カフカの『変身』を読む。カフカの『変身』と聞くと、脳裏に蘇ってくる思い出がある。

私が通っていた大学の学祭では、2年生になると、自分の専攻している言語で演劇をするという伝統があった。その学祭で、ドイツ語を専攻している学生たちが、『変身』の劇をやっていたのだ。『変身』は確かに有名な作品だが、数あるドイツ文学の中で、この暗く展開の少ない物語を選ぶ渋さが好きで、一も二もなく観に行った。

そういうわけで、今回改めて『変身』を読んでみると、私の脳内では、あの薄暗い舞台上で繰り広げられた『変身』が、あの学生たちの演劇の光景が、再上映された。私が活字を追うごとに、演者たちが動き、喋った。こういうふうに本を読んだのは初めてで、あの日、演劇を観て良かったと心から思う。読書は時に、読書以外のことが思いがけず作用して、深みを増すことがある。

それにしても、私はいつになったら、カミュの『ペスト』を読むのだろう。昨年の今くらいの時期から、ずっと読みたい読みたいと言い続けて、気づけば1年が経っている。次に書店に行くときは、絶対にペストを買います。



2022.2.8 Tue

200日目。
破戒:158ページ
どうやら今日が、今の勤め先で働き始めて200日目のようだ。もう200日経ったのだという事実を、真っ直ぐに受け止めることができない。いくらなんでも早すぎやしないか。嘘ではないか?

今の勤め先に入社する前からコロナが流行っていて、入社後も在宅勤務が中心で、勤め先の人たちと食事や飲み会に行ったことがほとんどない。家に籠って仕事をしているうちに日が暮れて、また次の日もそれと同じで、という生活をしているためか、勤続200日という数字に現実味がない。

私は小さい頃から、大人数の集まりに参加することが苦手だった。飲み会はなるべく避けてきたし、何かイベントが終わった後の打ち上げも、あまり楽しめなかった。そもそも、打ち上げ以前にイベントそのものを楽しめる性格でもなかった。気の置けない仲間たちとの、少人数での集まりは大好きだ。しかし大人数での集まりとなると、途端に過ごし方がわからない。

そんな私だから、コロナで歓迎会や忘年会などの催しが軒並み中止になり、幹事を務めずに済んでいる現状に、かなり助けられている。こんな私が幹事など、うまくできるはずがない。社内の飲み会は、互いの親睦を深めるために大切な場であると、常套句のように言われている。しかしそういう場であるがゆえに、かえって自分らしく振舞えない人もいる。こういう風習が無くなればいいとは言わないが、参加の意思がない人に幹事を任せたり、参加するかしないかによってその人との付き合い方を変えたりすることは、違和感がある。



2022.2.9 Wed

201日目。
破戒:158ページ
新潮文庫の星新一作品や、創元推理文庫の米澤穂信作品の装画を手掛けている、片山若子さんの画集を手に入れてしまった。嬉しすぎる。

装画を数多く手がけているイラストレーターさんの中で、中村佑介さんと並び私が敬愛しているのが、片山さんだ。画集『渋皮栗』も、ずっとずっと欲しいと思っていて、今回満を持して購入した。

片山さんの絵の魅力は、色彩の豊さによるライトな雰囲気と、その雰囲気の中に潜むダークな側面にある。

パッチワーク作品のように、多彩な色が継ぎ接ぎされた鮮やかなイラスト。多くの色が使われているのに、絵の全体を見ると、統一感が感じられるから不思議だ。多種多様な色が淡く滲んで溶け合い、幻想的・童話的な世界が構築されている。

一方で、片山さんのカラフルな絵の中には、ダークな世界観が共存している。明るい色調のイラストの中に、背筋が凍るような恐ろしいテーマが、ちらりと顔を覗かせたりする。そのギャップが良いのだ。

片山さんのイラストには、なんというかノスタルジックな、子供の頃の心模様を思い出すかのような懐かしさがある。1日中組み立てて遊んでいた積み木やブロックとか、小学校の時にクラスみんなで遊んだフルーツバスケットとか、図書室で読む児童書のイラストのひとつひとつとか、そういう懐かしい想いでの映像と、イラストが結びついている気がする。幼い頃の記憶がふつふつ呼び起こされて、それがすごく心地良くて、今という時間を忘れて、絵の世界に没入することができる。片山さんのイラストには、人を過去へとタイムスリップさせる力がある。



2022.2.10 Thu

202日目。
破戒:158ページ
今日あったことではないけれど、ふと思い出したことについて書く。

昨年の夏、大学時代の友人達と、所沢にある角川武蔵野ミュージアムに行った。ジャンルごとに本が所狭しと並ぶブックストリートや、天井まで届かんばかりの巨大な本棚劇場がある、読書好きのための博物館。

私たちが訪れた時、俵万智さんの「#たったひとつのいいね」という特設展が開催されていた。デビュー作の『サラダ記念日』以降、30年以上にわたって短歌を発表してきた俵さんの、厳選300首が展示されていた。文字が、言葉が展示されていた。

天井から吊るされた半透明の白い掛け軸に、短歌が記されていた。四方の壁に、柱に、モニュメントに、所狭しと歌が書かれていた。言葉の雨が降り注いでいるようだった。どこを見ても視界に短歌があって、どこを見ても発見が、刺激が、思考があった。そしてそのどれもが、本当に美しい言葉の連なりだった。

帰りに、書店で『サラダ記念日』を買ったのは、だから当然の成り行きだった。俵さんへの熱は、一向に冷める気配がなかった。

帰路、電車の中で、展示の余韻に浸りながら短歌を読み、美しい言葉の響きをゆらゆらと味わった。目を閉じると、あの言葉で満ちた展示室の、言葉に見守られている頼もしさや心地良さが蘇ってきて、私の周りに言葉の雨が漂う気配を感じた。私はあの時、帰りの電車の中で、言葉に囲まれていた。こんな読書体験は、たぶん二度とできないだろうと思いながら。



2022.2.11 Fri

破戒:158ページ
建国記念日。

破戒。丑松が父の訃報を聞いて故郷に戻り、蓮太郎と共に、千曲川と山々が見せる大自然の光景に目を奪われる場面。文章だけで、こんなにも自然の豊かさを映像的に描写できるものなのか、と感動する。藤村の自然描写、とくに飛騨山脈の荘厳さを書いた箇所には、青や緑、白といった色彩が、行間から溢れ出していた。あそこのページだけ、カラー印刷されていた。

丑松は、同じ身分の蓮太郎にさえ、穢多という自らの境遇を明かせないことに罪の意識を感じる。不義理だと、卑怯だと、臆病だと自分を責める。そして、幼い頃の無垢な自分を顧みて、穢多であるということをすっかり忘れ、あの頃のように、自由な心持ちを取り戻したいと願う。

自然描写と心理描写が溶け合い、非常に読み応えがある。破壊が面白い。エンジンがかかってきた。



2022.2.12 Sun

破戒:290ページ
イタリアで暮らしていた10カ月間、私はブログを書いていた。

はてなブログを利用し、留学手続きや生活の豆知識、イタリアの文化や料理などについて、簡単な文章を書いていた。思い返せば、留学中にほぼ毎日のように更新していたあのブログが、私が自分の言葉を外の世界に発信する、最初の経験だった。

もともと文章を作ることがそれほど得意ではなく、加えて必要以上に考えすぎてしまう性格で、毎日ブログを書くことはかなり苦痛だった。写真を撮影して、構成を考えて、文章を作成してアップするまで、いつも2時間くらいかかっていた。今思えば、せっかくイタリアに留学しているというのに、1日2時間も私は何をやっていたのか。部屋に篭ってパソコンに向かい、うまく書けないと頭を抱えながら、私は日本語の海にどっぷりと浸かっていた。

イタリアのコアな魅力を日本に発信したい、という思いが一応あり、地元の特産品や伝統料理などをよく紹介していた。そのおかげか、私はイタリアの郷土料理にやたらと詳しくなった。観光地にあるレストランではなく、現地の人が訪れるような大衆食堂を選び、必ずその土地の料理を注文した。留学中は毎週末のようにどこかに旅行していたので、紹介したい料理はどんどん溜まっていき、結果として私は、毎日ブログを書くことになった。

ブログを書いている間、遠い異国の地にいるということもあってか、私は孤独を感じていた。ブログを書くということは、徹底的にひとりの作業で、私は今イタリアでひとりなのだと、再確認する作業でもあった。毎日続けていると、やがてブログの執筆が流れ作業のように感じられてきて、一層孤独感は深まった。それでも毎日書き続けたのは、何故だったのだろう。

たぶん私は、文章を書くことが、本質的なところで好きなのだ。うまい言い回しが思いつかなくて悩んでいる時も、文章力が全く上達せず落ち込んでいる時も、心の底では、文章を書くことを楽しんでいるのだと思う。

まとまりのある小説やエッセイは書けない。構成力もオチもない。そんなことは分かっていて、その事実は私をひどく落ち込ませるのだが、それでも文章を書くことは楽しくて、好きだ。



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