叱るか褒めるか
「教師」は教室における「権力者」である。
それは、教師が子どもたちに「何かをさせる」という点からも明白であろう。
子ども側がそれを拒否してしまえば、それは「学級崩壊」であり、教師を入れ替えることになる。
三権分立という言葉を習った人は多いだろう。
「立法・司法・行政」の権力を分散し、権力の集中を防ぐというアレだ。
しかし、教室における教師は「三権の長」である。
教室のルールを決め(立法)、児童の喧嘩の仲裁をし(司法)、学級の運営をしていく(行政)。
学級王国という言葉が表している通り、教室においては教師が「独裁者」である。教師は教室における「唯一の大人」でもあるのだから、それは仕方がない。一人の大人が30名以上の子どもの生活を管理するのだから、それくらいの権力がないと難しいのかもしれない。
そんな教師はその性質上、子どもの行動に対して「介入する」ことになる。これは言い換えれば、子どもの行動を「叱ったり褒めたりする」ということである。
叱るか褒めるかという二択であれば、教師の一般的なイメージは「叱る」姿なのではないだろうか。
子どもはまだ子どもなので、どうしても「問題行動」を起こしがちである。
授業中に上の空になっている子はたくさんいるし、おしゃべりに夢中になって課題が終わらないこともあるし、投げなくてもいい消しゴムを投げてしまい隣の子にぶつけてしまうこともあるだろう。
そんなことが起これば教師は、その子どもを叱ることになる。
「今はそれをする時間ではありません」も「コラー!何をやっておるんじゃー」も子どもの行動の抑制を意図するという意味では「叱る」という分類でいいだろう。ちなみに、前者を「叱る」とし、後者を「怒る」とする考えもある。いわゆる「叱るはいいが、怒るはダメだ」という理論である。しかし、私から言わせれば、その分類は、教師側の恣意的な分類にしか感じない。「叱る」教師を見て、「怒る」と感じる子どもがいた場合、それは果たして「叱る」なのか「怒る」なのかという分類にはあまり意味がないだろう。
ここに銃があるとして、銃口を向けて相手の行動を抑制したときに、「実は弾は入っていませんでしたー」と後から言われても、銃口を向けられた相手にとってのその時の恐怖感に違いはないようなものである。
このような「子どもの問題行動を抑制する」という教師側の介入については、歴史的に見れば長い間「体罰による強制」が行われてきた。
最近は使われなくなってきた言葉として「教鞭(きょうべん)をとる」というのがあるが、この「教鞭」とはもちろん「ムチ」のことである。昔は、問題行動を起こす子どもや、学習に取り組む態度が悪い子どもは容赦無くムチで叩かれていた。
余談ではあるが、20世紀最大の哲学者と言われるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインも過去に小学校教師として勤務していた過去があるが、子どもを体罰してその職を追われることになった。
その後、「子どもの権利」という「人類の発明」によって、教育現場における体罰的な介入は抑制されるようになる。そこで次に登場したのが「競争」である。得点をつけ、序列にして子どもたちを競わせる。これも現代の人からしたら「下品」に映るかもしれないが、ムチで叩くよりはかなりの程度マシであろう。
国家による公教育という考え方は、日本では明治5年の学制からなので、その歴史はまだ150年程度である。それ以前は「すべての子どもに教育を受けさせる」というのは想定されていなかった。だから、ムチで叩かれるのが嫌な子はそもそも学校に通わなかったし、学習という行為が苦手な子どもも学校に近寄らなかっただろう。しかし、現代は「すべての子どもの学習権」を認めるため、集団生活が嫌な子も、学習が苦手な子も、すべての子どもを学校に通わせることが求められているわけである。
そう考えると、教師が問題行動を起こす子どもをムチで叩いていた学校の時代に比べて、現代の学校の教育の難易度はかなり高いものであることもわかる。ムチも使えないし、競争という手も下品である。叱れば、子どもは恐れて不登校になってしまうこともあるのだから、いよいよ手詰まりだと感じるベテラン教師も多いことだろう。
そんな中で「〇〇」というものが登場し出した。
と、ここで終わっている。
これの続きを書く元気も無いのだが、消してしまうのも勿体無いので、公開してみた。
〇〇の中身はご想像にお任せします笑