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教師と子どもは「対等」なのか

「教師が子どもと話すときは膝をついて目線を揃えましょう」

この手の言説は「教師の権威性」を否定し、子どもであっても「一人の人間である」ということを強調したものであろう。

教室における教師は長いこと「権力者」であった。教師は教室にいる「唯一の大人」であり、教室における立法・行政・司法の長であった。つまり簡単に言えば「独裁者」である。

しかし、それは「非教育的である」と社会から見なされた。それは「教師不信」と対をなしている。それまでは確かにあった「教師の権威性」が様々な出来事を経て、悉く失墜し、教師は権力者として振る舞えなくなった。

今では、教師は学校教育というサービス業に従事する従業員のようである。私の勤める自治体では、毎学期に保護者と児童に「アンケート」を実施する。「お子さんは授業を楽しんでいますか」とか「先生の授業はわかりやすいですか」とか、その内容は「お客様の評価を真摯に受け止め改善していきます」という「お客様第一主義」のようである。

これはいつも出す例であるが、例えば、新任の先生が、30年目のベテラン先生の授業に対して「導入が甘いですね」とか「まとめが曖昧」などの評価を下したら、その新任は大いに指導を受けるだろう。「新任のお前に授業の何がわかるんだ!」と。
しかし、学校はこの原理を「お客様」には適応しない。保護者や子どもは当然、その新任の先生より「授業経験はない」のであるから、「素人のお前に授業の何がわかるんだ!」とはならない。この事例からも、学校教育は保護者と子どもを「お客様」とみなしていることがよくわかる。

そんな状況であるから、必然的に、先述のような言説が出てくることになる。

「教師が子どもと話すときは膝をついて目線を揃えましょう」

サービス業に従事している従業員が、お客様に対して「上から目線」で話すことは許されない。昭和の格言を用いるまでもなく「お客様は神様」なのである。実際、出どころ不明のこんな話もある。

「私の息子には「いただきます」を言わせないでください。私はしっかりと給食費を払っているのだから。」

教育サービスを受益するための金銭としての「税金」はすでに払っている。だから、私たちは学校教育のサービス事業の至らない点については指摘させていただく。学校はサービス改善の努力をしろ、と。

このようなことから教師の権威性は失墜し学校はサービス業になり、子どもの権利という新しい価値観も受容され、様々な要因が「教師と子どもは対等である」という言説を生み出すことになった。

それが全て悪いわけではない。実際、「子どもの権利」という概念は学校における教育関係において改善点をいくつも提出している。教師の独善的な指導によって苦しむ子どもも減ってきているはずだ。

その流れの中で「教師が教える」のではなくて「子どもが学ぶ」という、「教育の学習化」も進んだ。これについては、別の記事でもまとめているのでご参照願いたい。

しかし、ここで私はこの大きな流れに逆行する考えを提案することになる。それを聞いた保護者たちは目くじらを立てて非難するかもしれない。それでもあえて述べよう。

教育関係は「非対称性」によって支えられている、と。

「非対称性」とは、つまり「教師の権威性」を認めることである。
教師と子どもは決して「対等」ではなく、学びの場においては、教師の方に権威があり、その逆では決してない。

対等な関係から学べることもあるだろう。子どもたちだけで遊ぶ場には、公正がなくなりがちで、理不尽で傲慢な振る舞いが蔓延る。しかし、子どもはそんな場からだって学ぶことができる。合わない人とは距離を取り、自分の居心地が良い空間を見つけるのだって立派な学びだ。

しかし、学校教育における教師と子どもという教育関係においては、「非対称性」が絶対に必要なのである。

ここで急いで補足するのだが、教師は「尊敬されるくらい立派であれ」とか「教師全員が修士以上の学位を取れ」とかいうつもりは毛頭ない。そんなものは必要ない。

教育は誰でもできる。

教育関係に必要なのは、「私は教えるものである」という「名乗り」だけである。
それで教育関係は成立する。「教えるもの」と「学ぶもの」は対等ではないが、能力差は考慮しない。それは「教える」という営みが「すれ違い」だからである。

例えば、ここまで「私が述べてきたこと」を、あなたは「本当に理解できた」であろうか。答えは、否である。絶対できていない。なぜなら、私がこれまで書いてきた文章は、私の中にしかない経験から述べられている。それを考慮せずに、それを「本当に理解する」ことができる人間は、この世界に一人もいない。

「一人もいない」というのは言い過ぎだと感じただろう。これを書いている私自身は「理解」できているのではないかと。もちろん、私はこれを読んでいるあなたよりは「本当の理解」に近いかもしれないが、それでも私には現在進行形で「これを書き続けている」経験が付加されている。だから、「これを書き始めた私」と「これを書いている私」とは別人とも言えるのだ。

少々話が、こんがらがってきたので、戻すことにしよう。

「ちゃんとしなさい」という先生からの言葉がある。

これは多様な意味を内包する。「片付けさない」とか「授業中は話さない」とか「前を向きなさい」とか、それは文脈によって多様な意味を持ちうる。だからこそ、すれ違う。教師は「ちゃんとしなさい」に「片付けさない」という意味を込めていっても、子どもは「姿勢を正す」ことは、よくある。

3年生の児童に45分間「警察署」について教えた教師から、子どもたちが学んだことは「消しかすを集めると、粘土みたいになって楽しい」ということも、またよくある。

「教える」という営みを「インストール」と考えている教師が非常に多い。「警察署の仕事」を45分間かけて教えれば、子どもたちの頭には「警察署の仕事」がすっかり入ると。そして、そんなことはないこともまた教師は知っている。単元末のテストを思い浮かべてみよう。あなたの教えたことが、実は子ども達の頭に全く入っていなかったということも、よくあることだ。

それでも、このようなすれ違いは悪いことばかりではない。
それは「教師が教えていないこと」さえ「子どもが学ぶ」ことがある、ということも意味する。
これについては、我が師である内田樹先生『先生はえらい』でわかりやすく論じているので、そちらを参照願いたい。

さて、そろそろまとめていこう。
教育関係を成立させるためには「教えるもの」と「学ぶもの」という「権力の差異」が必要である。しかし「教えるもの」は必ずしも「賢者」である必要はない。「私は教えるものである」という「名乗り」で十分である。なぜなら「教える」ことと「学ぶ」ことは常に「すれ違う」宿命にあるからだ。

しかし、すれ違う宿命にあるにもかかわらず、我々教師は「教え続け」ないとならない。それは「教師」は「子ども」に対して「あなたにはまだ知らないことがある。だから、学び続けないといけない。」と言い続ける役割があるからだ。

教師の役割はそれだけである。
「この世界には、君たちの知らないことがたくさんあるんだ」、と。

そして、教師自身が現に「私はもっとこの世界について学びたい」とやき焦がれていればいるほど、それは子どもたちにとって魅力的に映る。

それだけでいい。それだけで、子どもたちの学びは勝手に駆動する。
しかしそこには「水位差」が必要である。
それが「私は教えるものである」という「名乗り」なのだ。
あとは、高所から低所へ水が流れるように、学びは進行する。