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ゴールとしての目的、ルールとしての目的

本記事で扱う論文は以下のリンクから読むことができます。
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今回扱う論文は、前回の原論文に対して書かれた「コメント論文」です。書かれたのは宮寺晃夫さんです。宮寺さんの書かれた『リベラリズムの教育哲学』という本は僕も何度も読んでいます。

この宮寺論文については、原論文との「すれ違い」が指摘されています。しかし、論争というのはすれ違いでさえ楽しめるなと僕は感じています。というのも、今回、宮寺さんが提案する「手続き論」というのは、ポストモダンを経た、多様性が強調される現代において、「絶対的な目的を提示できない」という隘路に対しての打開策になる可能性を秘めていると感じるからです。

決められない、けど、決めないといけない。

この状況に対して、宮寺さんが考える「手続きの正当性の確保」というのは、分野は違いますけど、政治哲学的な思考法ですね。
原さんの論文が、「どうしようか」と先に進めなくしてしまうものであるならば(それはそれで大いにアリですが)、宮寺さんの論文は「それでも進もうぜ」という内容かなと感じています。

では、読んでいきましょう。

宮寺論文は、初めは徹底的に原論文を受け入れる。
そして、目的論を提示する虚しさを述べる。

「日常生活に必要な基本的な知識や技能を習得させ、自然、社会、および文化について基本的理解に導くこと」
「自ら考え正しく判断できる力を持つ児童生徒の育成」
「豊かな心を持ち、たくましく生きる人間の育成を図ること」

これらはいずれも、教育課程審議会答申で述べられた「子ども観(目的)」であるが、この「子ども観」における「目新しさでしか」目的論が語られない虚しさが、そこにはある。

結局、<子どもから>の発想には、教育の<主体>の生き様が決定的に不足している。我々がどうしたいのか、がそこにはない。そして、これこそが近代教育学の欠点なのである、と。この仮説自体に検討の価値はある。大いに検討していきたい。

しかし、と、宮寺は言う。
「近代教育学における目的論のとらえ方にオールターナティヴはありえないのか」と。

ここで宮寺は、ギリシャ語のmeta hodos(道に従って歩く)の話をする。
metaとは「後を追う」
hodosとは「道」
である。
そして、これはmethod(方法)の語源である。

ここから宮寺は、「方法は常にどこかを目指している」ということを述べる。
つまり、目的が意識されなくなったのは、その道がルーティン化しているからである。道を歩いていけば、目的はあるはずである。そして、仮にその道が未踏であれば、やはり目的が参照されることになる。だから、目的なき方法論や技術論というのはない。

次に宮寺は、内在的目的に注目する。
meta hodosのメタファーから分かるように、目的というのは基本的には外在的にあるはずであり、それなのにあえて「内在的」と使うからには、そこには意味がある。そして、その意味こそが「方法に対する規制原理」であるという。つまり、「内在的目的」というのは、目的を先取りして、その目的から考えて、逸脱したことを取り締まるための原理なのである。

ここから、目的には、通常考えられうる「ゴールとしての目的」の他に「ルールとしての目的」もあるのではないかと続けられる。なるほど。規制原理としての目的はたしかに「ゴール」よりは「ルール」に近い。そして、「ゴール」と「ルール」はゴロもいい。

宮寺は、ゴールを「子どもや社会に対する願いや企みにより、よくもあしくも、一般的にも個人的にも、さまざまに設定される」と定義し、ルールを「スポーツやゲームのルールがそうであるように、個人の恣意を排除するために公共的に合意されたもの」とする。

つまり、近代教育学は、目的を喪失したわけではなく、「ゴールとしての目的」を「ルールとしての目的」に置き換えていたわけであるとなる。だから、原論文の「目的論の喪失」だけでは、近代教育学批判には繋がり得ない。

つまり、「道徳性を目指して教育せよ」というゴールとしての目的の普遍性が共有されなかったとしても、「子どもの要求に従え」というルールにおいて共通理解を得られれば、あとは「やらないよりは、やったほうがまし」な営みとして公認(黙認)されることになる。これが近代教育学の役割であって、教育固有の価値を捻り出せというのは、多分にイデオロギー性を帯びた考えである、と論破する。

教育は公的な営みである。私的な営みと異なり、公的な営みには「正当性」が必要である。そうして、近代教学は、ルールとしての正当性を担保することで、同時に公教育の正当性をも担保してきたのだった。そもそも、教育が独自の目的を設定して、社会の方向づけに寄与してきたという実績は乏しい。いつだって、教育は社会という外部からの要請に応じて、その正当性を担保してきたのだ。

明治から戦後には、富国強兵と立身出世
戦後は民主主義と経済的主体としての確立

これらは、いずれも教育固有の目的ではないが、それを教育が取り入れることで、公教育としての正当性が保持されてきたのだった。

マキャベリは「目的は手段を正当化する」と述べた。
しかし、教育ではこれは好まれない。なぜなら、その目的を正当化できる客観的手続きは存在しないからである。目的はいつだって恣意的で主観的である。

ここで肝心な点として、行為や実践の正当化の機能を果たすのが、なにも目的論だけではないということである。それこそ「ルールとしての目的」であり、「手続き論」なのだ。

裁判過程における法的決定は、その決定内容よりも、手続きの正当性が常に問われ、それが正当であるならば、決定も正当なものとされる。もちろん、手続きの正当性は「内容」の真理性は保証できない。しかし、逆から考えれば、手続きに問題があれば、その内容の真理性さえも疑われることになる。これは必然的とまでは言えないが、偶然というのも言い過ぎであろう。

教育の史実においては、戦前の軍国主義教育を引き合いに出さなくたって、目的論が悪用された事例には枚挙にいとまがない。「正当化(jsutify)」は容易に「正統化(authorize)」に転移する。

手続き論だけでは、原の指摘する「乱開発」は防げないかもしれない。しかし、それでも社会総和としての生産性は向上してきた。
むしろ、恣意的ゴールの専横による生産性の低下こそが危険視されてきたのだ。

近代教育学は、「乱開発」を野放しにしてきたというよりも、自身の役割を教育の許容条件の定式化に限定してきただけである。
つまり「教育はどこを目指すのか」でなく「どのような教育が許されるのか」にかかわるだけで、その役目を果たしてきた。

最後の宮寺氏はなかなか過激である。
原論文を「水かけ論」とし、解答不能のアポリアを投げかけて「冷頭」効果を狙うと揶揄する。しかし、原の突きつけるラジカル(根底的)な問いに、まともに感応する体制は、近代教育学には組み込まれてはいないのだ。