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あらゆる記録された音なり映像なりは空間と時間の缶詰だと言いましたが、それは一種のタイムマシンでもある。 2021/02/04

 今日も今日とて佐々木敦『批評王』なのだけど、批評集を読むのが久しぶりでめちゃ面白い。

  例えば雑学的なトリビアとして面白い。

「J-WAVEが、洋楽リスナー(同局は当初洋楽専門だった)の耳でも聴けるジャパンのポップ・ミュージックという意味合いで「Jポップ」というワードを使い始めたのが、今や完全に日常語になっているこの語の発祥という説が濃厚であるからだ。」
佐々木敦『批評王』P.113

 「J-POP」という言葉の発祥が「J-Wave」とか、昭和的な歌謡曲との区別をつけるためだとか、へぇ、って感じ。批評には「へぇ」と「面白そう」が詰まっている。

 アッバス・キアロスタミ監督は、この作品の記者会見で「私の映画は始まりがなく、終わりもない」と言ったという。
佐々木敦『批評王』P.164

 これはまるで日記のようだな。どこから読んでも良いし、いつ終わっても良い。日記は物語ではないから。物語られている必要はないものを読みたい、とたまに思う。その時は日記がいい。

 物語には常に、物語る者と物語られる者がいて、そこで交わされる行為が余計な誤解や間違いを生まないように、辻褄とか因果とか呼ばれるものが重要視され、それらを納得させるための説明が不可欠とされるのだ。説明が上手い物語はわかりやすいし、下手だとわかりにくい。説明をストーリーテリングと言い換えてもいいだろう。
 だが、現実の人生にはストーリーテリングは存在しない。いや、ドラマチックな人生という言い方があるように、そこにも何らかの物語性はありはするのだが、そこには物語る者も物語られる者も基本的にはいないので、必然的に説明というファクターは介在してこない。
佐々木敦『批評王』P.165

 物語は物語で良いけど、離れたくなる時もあるよな、と改めて。

 ビルドゥングス・ロマンが現代だと成立し難くなっているよね、という話。

 ありうべきゴールとしての「成長=成熟」が何によって支えられ証明され得ているのかもよくわからなくなってしまっていることもあるが、それ以前にそもそも人間は「成長=成熟」するべきなのか、そんなことが可能なのか、という根源的な問いが現れてきてしまったからだ。
佐々木敦『批評王』P.191

 批評集が面白いのは、対象があっちこっちに飛ぶこと、というかそれは佐々木敦がジャンル横断的な批評活動を行ってきた人だからこそなのだけど、次から次へと様々な人、作品の話が出てくる。という訳で、平田オリザの話。

 ここかオリザ理論の特色なのですが、彼は演劇という虚構の現場において、リアル =ナチュラルであるということは、徹底した人工性によってしか実現出来ないと考えるのです。
佐々木敦『批評王』P.288

 学生時代以来ぶり、20年ぶりくらいに平田オリザへの興味を喚起された。

 この「世界観の変容」と「自己観察への反転」は、作り手と観客に同時に起こる。「観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない」。
佐々木敦『批評王』P.291

 ドキュメンタリーとは、ノンフィクションとフィクションに違いはあるのか?観客にそもそもそれがノンフィクションであるかどうかが提示されていない場合、なんか違いがあるのか?ドキュメンタリーとはそもそも客観的な代物なのか?

 ドキュメンタリーという方法論そのものが、常に作り手の「主観」にあらかじめ/どこまでも拘束されてあるのであって、それを通して「対象」を、そして「世界」を見つめようとするものなのだ、ということです。つまりドキュメンタリーにおいては、 実のところ「客観」と「主観」 という二分法はそもそも成立していない。
佐々木敦『批評王』P.292

 子供の頃から、インストゥルメンタルが好きで、日本語の歌は苦手だった。歌詞の意味が入ってくるのが嫌で、洋楽への目覚めが早かったのは、一重にわからない言葉で歌われていて、歌も音でしかなかったから、というのは強烈に意識していたことを思い出す。なのでめっちゃ洋楽聴くのだけどほとんど何を歌っているのか、その意味は知らないまま生きている。

 英語がわからない日本人音楽リスナーも、日本語がわからない外国人 音楽リスナーも、言語をほぼ音として聴いているのである。
佐々木敦『批評王』P.350

 缶詰、タイムマシン説。なんとなくわかるような。今こうして書かれているテキストもまた缶詰な気がしないでもない。何かを閉じ込めているのか、刻んでいるのか、どうだろう。

 あらゆる記録された音なり映像なりは空間と時間の缶詰だと言いましたが、それは一種のタイムマシンでもある。
佐々木敦『批評王』P.446

 保坂和志の『朝露通信』の書評の一節。「そういえば、」という断片的だが連続的に記憶が引きずり出されていくというのは、この本を読みながらこんなことを記しているのそのまんまだよな、などと思う。

  そういえば、 そういえばと、思い出が自然に、とめどなく引きずり出されてくるいう感じなのだ。 読み進む内に読者は、記値というものが、時系列に沿ったものではなく、いわば塊のような、海のような、雲のような何かとして、丸ごと提示されようとしていることに思い至る。
佐々木敦『批評王』P.512

 多分に断章的な日記だったけれど、日記なので、それはそれで構わないんじゃないかな、と思いながら寝た。また夜更かししてしまった。











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